Sanzio 1928年 牡馬 鹿毛 英国産かイタリア産

父Papyrus  母Scuola d’Atene  母の父Bayardo

主な戦績:Gran Premio di Milano 1着、Grand International d’Ostende 1着

 

Sanzioの父Papyrusは英国産。1923年の英ダービーの勝ち馬で、直系は途絶えましたがCosquilla(Princequilloの母)、Honey Buzzard(Honey Wayの母)、Barbara Burriani(Romanellaの母、Ribotの祖母)など、どちらかといえば母系に名を残しています。母Scuola d’Ateneは英国産。テシオの持ち馬で、戦績は不明ですが兄弟にはScopasやScopelloがいます。Sanzio以外の産駒には名繁殖牝馬Scuola Genoveseなど。

 

フェデリコ・テシオは自身の価値観において不要と判断した馬は、惜しみなく手放してしまいます。しかし、その中から蘇り有名になった馬は多数います。その一頭がSanzioでした。テシオが見放したSanzioを購入したのはConte Luchino Visconti di Modrone。後に『郵便配達員は二度ベルを鳴らす』や『ベニスに死す』などで有名になる映画監督ルキノ・ヴィスコンティ伯爵でした。

 

当時、ヴィスコンティ伯爵はまだ二十代半ば。兵役を終えたばかりでまだ映画の道には進んでおらず、兄弟たちが競馬に携わるようになると、自らもアマチュア騎手として障害レースに参戦。名アマチュアジョッキーとして知られるようになり、やがて馬主になり、そして生産者になるのにさほど時間はかかりませんでした。この過程はフェデリコ・テシオと良く似ています。

 

後年(1935年)、ルキノは馬主を(Axum、Gran Criteriumで3着など)しながら、アマチュア騎手として芝の平地で9勝(年間5位)、障害レースで5勝(3位)の成績を残しています。出自と芸術的才能に恵まれたルキノ・ヴィスコンティ伯爵は、社交的で大衆に人気があり、その笑顔とともにイタリア競馬の華たる存在だったようです。

 

Sanzioの生まれた1928年組にはNogaraもいますが、さほど目立つ馬はいませんでした。しかし、1931年のある日、テシオは3歳になったSanzioをわずか1,500リラでルキノ・ヴィスコンティに売却しました。その明確な理由は不明ですが、推察するならSanzioは身体が弱く、2歳、3歳というテシオにとって一番の稼ぎ時に走ることができないと判断されたようです。ルキノ・ヴィスコンティの伝記では、『フェデリコ・テシオはイタリアの偉大なホースマンでした。しかし彼は情に流されることなく、冷徹に馬の能力にのみ興味を示す自分のルールを徹底していました。その中でSanzioはテシオの基準から落とされたのです。しかしヴィスコンティ伯爵はSanzioをじっくりと時間をかけて鍛え直しました』と、テシオは冷徹なサイエンティストのように描かれています。

 

ヴィスコンティ伯爵の献身的な飼育、調教によりSanzioは4歳になると立派なサラブレッドとして蘇りました。サラブレッドについてヴィスコンティ伯爵は後年『サラブレッドの調教と映画作りは似ている。才能ある馬を見抜き、時に優しく、時に厳しく接することでその才能を引き出す』と語り、若き日の経験が映画作りに役立ったと言ったそうです。1932年、Sanzioは勝利を重ねついに6月のミラノ大賞典へと駒を勧めました。さほど人気は高くなかったものの、白と緑の勝負服を着たポリフェモ・オルシーニを背に乗せたSanzioは1着でゴールを駆け抜けました。その時テシオは喜んだのでしょうか。悔しかったのでしょうか。ただルキノ・ヴィスコンティ伯爵が、満面の笑みでSanzioの手綱を持つ写真が残されています。

 

ヴィスコンティ伯爵は次戦をベルギーのオステンド競馬場で行われるGrand International d’Osdendeに決めました。そのレースには当時ベルギー最強馬Prince Roseの出走はなかったものの、強敵たちを打ち破りSanzioは勝利しました。この偉業にテシオもさすがにSanzioを見抜けなかった自分を恥じたそうです。

 

La Stampa 1932年8月29日号より

『Grand International d’OsdendeはSanzioが楽勝』

 

オステンド競馬場で行われるグランド・インターナショナル(ベルギー、オスデンド競馬場芝2,200m)に出走するイタリアのチームは、初参加でありながらこれほど喜ばしい結果をもたらすとは思っていなかったでしょう。ルキノ・ヴィスコンティ伯爵と愛馬Sanzioは強敵を打ち破り優勝したのです。ただ一つ残念な点があるとすれば、ベルギー最強馬Prince Rose(英国産のベルギー馬。フランス、ベルギーで走り20戦16勝。オスデント国際大賞やサンクルー大賞1着。凱旋門賞は3着。種牡馬としてPrince Chevalie、Princequillo、Prince Bioなどを残し今なお影響を与え続けている) が出走しなかったことで、Sanzioの勝利の価値を下げようとする心無い意見もありますが、まったくの無駄と言えるでしょう。

 

先週の木曜日。Sanzioはオステンド競馬場で行われた前哨戦Prix du Counlèで敗北。前走ミラノ大賞典の勝者は得意な距離故に大本命としてスタートしましたがファンたちを失望させました。Sanzioは『イタリア国内での最強馬だった』、いや『騎手の乗り方がまずかった』と主張するものもいましたが、敗北によりその評価が下がったのは事実です。

 

おかげで、Grand International d’Osdendeの人気はBosphore(フランス産、エドゥアール・ロスチャイルド男爵の馬。イエナ賞他)とAmfortas(フランス産。Teddyの馬主で有名なジェファーソン・デイビス・コーンの馬。1931年の同賞3着、凱旋門賞2着)に向けられて、Sanzioはその他の一頭とみられていました。

 

当日、オスデント競馬場にはベルギーのレオポルド王子をはじめ、フランスやイングランドから豪華で瀟洒な観客が集いましたが、イタリアからはほとんどいませんでした。天気はどんよりと曇っていましたが、馬場は雨で緩むことはなくコンディションは良好でした。

 

出走馬と馬主

Sanzio(ルキノ・ヴィスコンティ伯爵)Amfortas(ジョナサン・デイビス・コーン大尉)Goyescas(マルセル・ブサック)Prècious (クレイネルマ)Roi Soleil(ブルビン)Bosphore  (エドゥアール・ロスチャイルド男爵)Casteau (フェルヘイレヴェーゲン)※この時、Sanzioがテシオの馬だったならば、マルセル・ブサックとの初対決になっていたのですが、二人が初めて相対するのは第二次世界大戦後まで待たなければなりません…。

 

観客たちに見守られながらスタート地点に向かった優駿の7頭でしたが、スタートはなかなか揃いませんでした。何度かのやり直しの後、ようやくスタートが切られると1週目はRoi Soleilを先頭に流れ、BosphoreとSanzioは最後尾から追従しました。2週目、最後の直線手前になると7頭は一団となり騎手たちは追い込みの態勢に入りました。この時、Sanzioの鞍上オルシーニ騎手は好機と判断し、Sanzioに合図します。するとSanzioは良い反応を見せ、先頭のCasteauとAmfortasを追い詰めました。しかし2頭はSanzioに対して激しく抵抗。混戦の中オルシーニ騎手がSanzioに鞭を振り上げるとすぐさまSanzioは抜け出し、そのまま3馬身差でゴールを駆け抜けました。

 

結果

1.Sanzio (60kg Orsini)

2.Bosphore(55kg Shtfner)

3.Casteau(52kg Ellis)

着外 Amfortas、Goyescas、Precious、Roi Soleil

1着賞金600,000フラン、2着75,000フラン、3着36,000フラン

 

10月。ヴィスコンティ伯爵は当然のようにSanzioをパリ、ロンシャン競馬場で行われる凱旋門賞に出走させました。パリ社交界でも高名なヴィスコンティ伯爵は注目の的だったに違いありません。しかし結果は着外。ミラノ大賞典で負かしたFenolo(5着)にさえも勝てませんでした。La Stampには、前日、前々日に降った雨が原因では、とも。

 

その後Sanzioは何戦かこなした後引退。種牡馬になりました。どちらかといえば障害専用の種牡馬として活躍しました。そしてSanzioの活躍に心打たれたテシオも種牡馬として使い、その産駒をドルメロ・オルジアータに迎えました。

 

ところがルキノ・ヴィスコンティ伯爵は、徐々に競馬への情熱を失っていきます。1930年代は辛うじて保っていたものの、1942年には厩舎も解散。そして1943年、『郵便配達員は二度ベルを鳴らす』で鮮烈な映画監督デビューをすると、二度と競馬界に戻ってくることはありませんでした。


そのことをテシオがどう思ったのかは謎です。素晴らしいライバルを失ったという喪失感?強敵が去ったことによる安堵感?それとも、芸術的才能と天性の愛嬌を持つ青年への老人からの嫉妬があったのでしょうか。


またこの時、この若き天才ホースマンがイタリア競馬界から去ったことでイタリア競馬の衰退が始まったという意見もあるようです。

 

 

 ルキノ・ヴィスコンティとフェデリコ・テシオ



参考文献

La Stampa

Il mito di Tesio

Il mondo del Turf ヴィスコンティ伯爵の競馬史を詳しく調べられています。(イタリア語)

映画 ルキノ・ヴィスコンティの世界 

1999年イタリア。映画内でSanzioのレースシーンや厩舎が映っています。