「私だったら」は「相手の立場に立ってみる」の真逆。 | 桃色テラス

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事物に対するあやふやな恋情≒物欲食欲、日日流され忘れてしまうような些事など、雑多な覚え書きの保管場所。
地元茅ヶ崎に関するメモ、私見偏見に満ち満ちた本・映画などの感想も。

あはれ来て野には咏へり曼珠沙華

三橋鷹女が理想です。

「私だったら、キャバクラににつとめてでも家を出るよ」
「俺だったら、親に撲たれようが育ててもらった恩があるんだから我慢するよ」

そう言いたいよね。
親身になればなるほど、1番身近な自分の事例を引き合いに出して、「こうしたらどうかな?」「こう出来るよね?」と解決策を提示したくなるのだろう。

でもこれって、よく言う「相手の立場に立ってみなさい」というコトの真逆じゃなかろうか(もちろん前提として、完全に「他者の立場に立つ」ことなんぞ不可能で「その状況だったらどうだろうか?」と想像を巡らすことしかできないのだけれど)。

「相手の状況について想像を巡らす」(≒「相手の立場に立つ」)のは、自分から歩み寄って、その相手の隣に立ってみること。相手の居る場所へ向かう途中には段差があるかもしれないし、ぬかるみで足をとられるかもしれない。もしかしたら相手の立っている場所の地盤が緩く、自分がのることで崩れてしまうかもしれない。
近づくには細心の注意が必要だ。

その半面、「私だったらこうするのに」と伝えることは、自分とは違う場所に立つ相手の首に縄を掛けて(投げ縄で?)、自分のいる場所へと引っ張るようなモンだ。自分の地盤は確かめた上で、相手が通るルートの困難さや脆さは脇に置いて、力任せに引き寄せる。
グイと引き寄せられた相手は足下の石につまずくかもしれないし、バナナの皮で滑って転んで頭を打って死んじゃうかも知れないんだ。その上、相手の靴は3歩でひっくり返ってしまうようなロッキンホースかも知れない。そう、近寄ってみないことには知りようがないんだ。

「こっちの方が居心地がいいから、暮らしやすいから来なさいよ」という善意が起点であるから責めるつもりは全くないし、その強引さが必要な場面もあろう。

「私だったら」と、無理に手綱を引くことで相手を転ばせるリスクを負うぐらいなら、自分のブーツに踏み抜き防止のインソールをセットして、そっと近寄っていくほうがよほど気が楽だ。私だったら、ね。
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