皆さんは、北海道上川郡和寒(わっさむ)町にある
塩狩峠を知っていますか
ちょうど今から115年前の今日、1909年(明治42年)2月28日、
長野政雄が30歳の時の出来事です。
小説家、三浦彩子のロングセラー小説として有名な塩狩峠。
実はこの土地で115年前、数十人の死者が出たかもしれない
列車事故が起ころうとしていたのです。
では、詳細を見てみましょう。
明治42年2月28日夜、塩狩峠において列車の最後尾の連結が突如分離し、逆降暴走。乗客全員、転覆を恐れ、色を失い騒然となる。乗客の一人、鉄道旭川運輸事務所庶務主任、長野政雄氏、乗客を救わんとして、車輪の下に犠牲の死を遂げ、全員の命を救う。その懐より、クリスチャンたる氏の常に持っていた遺書発見せらる。
『苦楽生死、ひとしく感謝。余は感謝して全てを神に捧ぐ』
これはその一節なり。30歳なりき。
生い立ち
明治13年、愛知県水稲村生まれ。父は代々藩に仕えた身でしたが、明治維新で家禄奉還し水稲村に移住。ところが父は3歳の時に死去。政雄は後見人として親戚に遺産の管理を任せましたが、裏切られ全財産を失います。
13歳で名古屋監獄の給仕として働き母と妹を養います。
16歳の時に判事に「法律の勉強をしてみないか」と言われ、判事の転任に伴い、函館・大阪に同行し昼は判事助手、夜は法律学校で学びました。
明治31年、大阪で貯金管理所登用試験に合格し判事官資格を得ます。しかし、この後すぐに体を壊し判事官の仕事は続けることができなくなりました。
このころ、親友にクリスチャンがおり、落ち込む政雄を度々教会に連れて行きました。熱心に薦められ大阪で洗礼を受けることになります。たまたま、大阪時代の先輩が北海道の国鉄に勤務していたことで、誘われて北海道に渡りました。18歳の時でした。
札幌運輸事務所で4年勤務したのち、明治34年、21歳の時に転勤で旭川運輸事務所に赴任。
仕事の熱心さを買われ、庶務主任となります。翌年には、旭川キリスト教会に日曜学校が設けられ、政雄はその初代校長に任命されました。北海道にきても、母親への仕送りを続けていたため、衣服は新調したことがありません。また粗食で大豆の煮物を壺に入れておき10日も20日も、大豆ばかり食べていたといいます。母親への仕送りと、教会への寄付金にあてていました。職場では夕方5時になると部下全員を帰宅させ、残った仕事を独りで片付け、それは深夜に及ぶこともありました。
ある時、仕送りや寄付金の多さに心配した友人が、「少しは自分のために貯金したらどうだ」と勧めると、「金は使えばなくなってしまう。だから、私にとっては宝ではない。本当の宝は、決して消えることのない自らの行いなのだ。その行いを続けていくことが、のちに自分にとっての大きな宝になるのだ」と言ったといいます。
明治42年2月28日、長野の隣人への愛が最終的に試される時がやってきました。その日の夜、彼は名寄から汽車に乗り、いつものように旭川の教会に向かっていました。
汽車が、塩狩峠の上り急勾配にさしかかったとき。最後尾の客車の連結器が突然はずれ、客車は前の車両から分離して、逆方向に急速度で走り始めたのです。もはや脱線転覆はまぬがれまいと総立ちとなり、救いを求め叫ぶ有り様に車内は大混乱となりました。
その客車に乗り合わせていた長野は、すでに覚悟が決まっていたと見え動揺することなく、乗客を救助することを模索していました。
客車のデッキにハンドブレーキの装備があるのが目に入り、ただちにデッキ上に出て、ブレーキを力一杯締め付けました。客車の速度は弱まり、徐行程度にまでなりました。しかし、完全には止まりません。もしこのまま走り続ければ、この先の急勾配でまた客車は暴走を始めるかもしれない・・・・。「どうしたらいいのか」――これ以上ブレーキはきかない。
乗り合わせていた藤原栄吉氏によれば、そのとき長野がデッキ上から後ろを振り向き、一瞬うなずいて乗客らに別れの合図をした姿を目撃したといいいます。
次の瞬間、客車は「ゴトン」という衝撃とともに完全に停止しました。
乗客は外に出て、自分たちが助かったことを知ります。しかしその客車の下に見えたのは、自らの身を線路に投げ出し、血まみれになって客車を止めた長野の無惨な遺体でした。
客車内に残されていた彼の遺品の中には聖書と、妹への土産の饅頭などがあったといいます。殉職直後、旭川、札幌に信仰の「一大のろし」が上がり、何十人もの人々が洗礼を受けました。藤原栄吉氏も、感激のあまり70円あった自分の貯金を全部を日曜学校のために捧げたといいます。
参照記事
長野政雄は、常にこのような生き方をされていたと言います。
・非常に質素な生活をしながら教会には多額の献金をする
・信仰熱心で教会の各集会の全てに出席
・自費で各地に伝道し「鉄道キリスト教青年会」というものを組織
・職場でも優秀でどの上司からも絶大な信頼を得る
・神に身を捧げ、いつ何時自らの命を他人の為に使えるように
『苦楽生死、ひとしく感謝。余は感謝して全てを神に捧ぐ』と書かれた遺書を常に懐に持ち歩いていた。
長野政雄は、イエス・キリストの生き方に心底感銘を受け、他の為に生きる生き方を貫いた人でした。
今でも多くの人に感銘を与えています。
そして、あまり知られていないのですが、同じような事故が長崎県の打坂峠というところでもあった事をご存じですか
1947年(昭和22年)9月1日の出来事です。
長崎自動車の路線バスの事故で一人の若者が犠牲になりました。
その人の名前は、鬼塚道男。路線バスの車掌をしていました。
鬼塚車掌は約30人余りの乗客の命と引き換えに21歳という若さでその生涯を閉じたのです。
昭和22年9月1日、瀬戸営業所勤務の鬼塚車掌は、満員に近い乗客を乗せた大瀬戸発長崎行きの木炭バスに乗務し、打坂を登っていました。
当時この坂は急勾配の坂として知られており、片側には崖が控えている場所で、運転者仲間に“地獄坂”として恐れられていました。
頂上まであと数メートルというところで、突然ブレーキがきかなくなり、バスが後退。鬼塚車掌はバスを飛び降りて、道脇にあった大きな石を車輪の下に入れ、後退を止めようとしました。しかし加速のついたバスは止まりません。鬼塚車掌はとっさに後部車輪の下に飛び込み、自らの身体を輪留めにしました。バスは崖の一歩手前で停止し、乗客の命は救われました。鬼塚車掌は運転者と駆けつけた同僚が病院に運んだ直後に息を引き取りました。
詳細は、こちらの動画をぜひご覧ください
塩狩峠事故&打坂峠事故
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人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。
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