12月23日は、日本人にとって忘れてはいけない大切な日です。

12月23日に処刑された東条英機大将の遺書です。

毎年この日になるとこの遺書の内容を心に刻みたいと思っております。

日本の真実[東條英機大将、処刑前の遺書 「以て天日復明の時を待たれんことを」

東条英機大将 遺言

英米諸国人に告げる

今や諸君は勝者である。我が邦は敗者である。この深刻な事実は私も固より、 これを認めるにやぶさかではない。しかし、諸君の勝利は力による勝利であって、正理公道による勝利ではない。私は今ここに、諸君に向かって事実を列挙していく時間はない。しかし諸君がもし、虚心坦懐で公平な眼差しをもって最近の歴史的推移を観察するなら、その思い半ばを過ぎるものがあるのではないだろうか。我れ等はただ微力であったために正理公道を蹂躙されたのであると痛嘆するだけである。いかに戦争は手段を選ばないものであるといっても、原子爆弾を使用して無辜の老若男女数万人もしくは数十万人を一挙に殺戮するようなことを敢えて行ったことに対して、あまりにも暴虐非道であると言わなければならない。

もし諸般の行いを最後に終えることがなければ、世界はさらに第三第四第五といった世界戦争を引き起こし、人類を絶滅に至らしめることなければ止むことがなくなるであろう。

諸君はすべからく一大猛省し、自らを顧みて天地の大道に恥じることないよう努めよ。

 

 
日本同胞国民諸君

今はただ、承詔必謹する〔伴注:終戦の詔を何があっても大切に受け止める〕だけである。私も何も言う言葉がない。

ただ、大東亜戦争は彼らが挑発したものであり、私は国家の生存と国民の自衛のため、止むを得ず受けてたっただけのことである。この経緯は昭和十六年十二月八日の宣戦の大詔に特筆大書されているとおりであり、太陽の輝きのように明白である。ゆえにもし、世界の世論が、戦争責任者を追及しようとするならば、その責任者は我が国にいるのではなく彼の国にいるということは、彼の国の人間の中にもそのように明言する者がいるとおりである。不幸にして我が国は力不足のために彼の国に敗けたけれども、正理公議は厳として我が国あるということは動かすことのできないことである。

力の強弱を、正邪善悪の基準にしては絶対にいけない。人が多ければ天に勝ち、天が定まれば人を破るということは、天道の法則である。諸君にあっては、大国民であるという誇りを持ち、天が定まる日を待ちつづけていただきたい。日本は神国である。永久不滅の国家である。皇祖皇宗の神霊は畏れ多くも我々を照らし出して見ておられるのである。

諸君、願わくば、自暴自棄となることなく、喪神落胆することなく、皇国の命運を確信し、精進努力することによってこの一大困難を克服し、もって天日復明の時が来ることを待たれんことを。

 

 

日本青年諸君に告げる。日本青年諸君各位

我が日本は神国である。この国の最後の望みはただ諸君一人一人の頭上にある。私は諸君が隠忍自重し、どのような努力をも怠らずに気を養い、胆を練り、現在の状況に対処することを祈ってやまない。

現在、皇国は不幸にして悲嘆の底に陥っている。しかしこれは力の多少や強弱の問題であって、正義公道は始終一貫して我が国にあるということは少しも疑いを入れない。

また、幾百万の同胞がこの戦争のために国家に殉じたが、彼らの英魂毅魄〔伴注:美しく強い魂魄〕は、必ず永遠にこの国家の鎮護となることであろう。殉国の烈士は、決して犬死したものではない。諸君、ねがわくば大和民族たる自信と誇りをしっかり持ち、日本三千年来の国史の導きに従い、また忠勇義烈なる先輩の遺旨を追い、もって皇運をいつまでも扶翼せんことを。これこそがまことに私の最後の願いである。思うに、今後は、強者に拝跪し、世間におもねり、おかしな理屈や邪説におもねり、雷同する者どもが少なからず発生するであろう。しかし諸君にあっては日本男児の真骨頂を堅持していただきたい。

 

真骨頂とは何か。忠君愛国の日本精神。これだけである。

 

実際には参拝に行くことはできないので、この動画を見させていただきました。 

みなさんも是非ご覧ください。

 

 
ここからは過去記事を再掲します☆彡

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12月23日は、日本人が忘れてはいけない日です。

殉国七士の死刑が執行されたのが、昭和23(1948)年12月23日です。

三ヶ根山の山頂に、日本人なら忘れてはならない大切なところがあります。
それが「殉国七士廟」です。


この「殉国七士廟」に祀られているのは、先の東京裁判で、日本を背負って殉職された、板垣征四郎・木村兵太郎・東条英機・土肥原賢二・広田弘毅・松井石根・武藤章の七名です。
そうです。いわゆるA級戦犯といわれた方々です。

東京裁判は、大東亜戦争の戦争責任を追及する裁判として、アメリカ・中国・イギリス・ソ連・オーストラリア・カナダ・フランス・ニュージーランド・インド・フィリピンの11カ国が判事を出して行なわれた裁判でした。
起訴は昭和21(1946)年4月29日に行なわれました。
4月29日といえば、昭和天皇の誕生日です。
それだけみても何か作為を感じます。

さらにいうと、27億円の裁判費用は、日本政府が全額供出させられています。
当時の日本が、終戦直後で、全土が焼け野原、世界の最貧国同然だったにもかかわらず、です。

東京裁判は、昭和23(1948)年11月4日に、判決の言渡が始まり、11月12日に判決言渡が終了しました。
判決は、法治社会にあってはならない事後法(事件のあとで作られた法、法律には不遡及の原則があり、法のできる前の事件は裁けないのが原則)に基づく一方的なものでした。
そして次の七士が、A級戦犯として絞首刑の判決を受けました。

板垣征四郎(陸軍大将、関東軍参謀長)
木村兵太郎(陸軍大将、ビルマ方面軍司令官)
東条英機(陸軍大将、内閣総理大臣)
土肥原賢二(陸軍大将、特務機関)
広田弘毅(文民、内閣総理大臣)
松井石根(陸軍大将、中China方面軍司令官)
武藤章(陸軍中将、第一四方面軍参謀長)
(名前五十音順)


死刑が執行されたのが、昭和23(1948)年12月23日です。
この日は、当時皇太子殿下であられた今上陛下のお誕生日です。
裁判の開廷の日、刑の執行日に、我が国のもっとも大切な陛下のお誕生日をそれぞれあてる。
この裁判が、いかに異常な報復行動であったかを象徴しています。


絞首刑となった七士は、即日火葬に付されました。
実は、七士の各担当弁護士たちは、刑の執行のあと、せめてご遺体を家族に引き渡そうと、マッカーサー司令部に請願していました。
しかしGHQは、まるで受け付けませんでした。

このままでは、遺体はもちろん、遺骨も家族に戻されることはありません。
そこで数名の有志たちが、無法とも思える計画を立案しました。
その時の模様が、「天皇と東条英機の苦悩 (知的生きかた文庫)」に書かれていますので引用します。

********
全部の遺体が焼けたのは、
一時間半ほど経ってからだった。
窯の扉が火夫によって開けられ、
長い鉄のカキ棒で白骨が取り出されると、
火葬場長の飛田は、
七人の遺骨の一部を
七つの骨壷に入れて他の場所に隠した。

ところがこの隠した骨壷は、
誰かがA級戦犯を憐れんだのか、
線香を供えたために香り煙のために
監視の米兵に見つかってしまった。

このため骨壷は米兵の手もとへ移った。
米兵は、鉄製の鉢の中へ遺骨を入れると、
鉄棒のような物で上から突いて、
骨を細かく砕きはじめた。
それはまさに死者にムチを振る惨い行為であった。

米軍がA級戦犯の骨を砕いて、
空から東京湾へ撒くという噂があった。
日本人が英雄崇拝の対象になるのを恐れて
海にばらまくというのである。
遺骨を隠すことに失敗した飛田は、
内心穏やかでないあせりがあった。

骨を砕き終えた米兵は、
黒い箱を七つ出して、砕いた骨を入れた。
そして箱の上に1から7までの番号を書き入れた。

この遺骨の入った箱は、
A級戦犯の遺体を巣鴨から運んできた米兵が持ち去った。
台の上に灰と一緒に残っていた小さな骨は、
米兵の監視つきで火葬場にある共同骨捨て場に
捨てるように命じられた。

A級戦犯の遺骨を奪う計画は、
小磯国昭大将の弁護人だった
三文字正平によって進められていた。
三文字弁護士は、米人弁護士のブルウェットに相談し、
彼を通じてGHQに処刑されたA級戦犯の
遺骨を遺族たちに渡せるように嘆願していた。
ところがマ元帥が一向に首を振らなかったため実現しなかった。

三文字弁護士は、
巣鴨プリズンにおいて処刑されたA級戦犯が、
久保山で火葬されることを探りあてた。

三文字は火葬場のすぐ上にある
興禅寺を訪ねて住職の市川伊雄と会った。
市川住職は東京裁判にも傍聴に行き、
裁判の不公平さに怒りを抱く一人であった。
三文字弁護士が市川住職に協力を求める説明にも熱が入った。

このA級戦犯の遺骨が米軍の手から戻されないと、
国民が不公平だった東京裁判の結果を認めたことになる。
彼らの命令で戦場に駆り出された三百万の英霊さえ、
辱めを受けて浮かばれなくなる。

市川住職も日本人として耐えがたいことだったので、
三文字に協力することを引き受けた。
市川住職は、火葬場長の飛田を三文字に紹介したのである。

久保山火葬場の内部に働く人の協力で、
はじめはA級戦犯の遺骨を分けて隠すことができたのが、
米兵の監視に見つかり失敗した。

今度は火葬場の共同骨捨て場に捨てられている
A級戦犯の骨を持ち出さなくてはならない。
次の新しい骨が捨てられるまでは、
少しは他の骨も混ざってしまったとはいえ、
七人の遺骨は残っている。

これを盗み出すのは12月25日の夜と決めた。
米軍の監視がクリスマスで
気がゆるんでいる隙に実行しようというのである。

暗くなり、頃合を見計らって、
三文字弁護士と市川住職は
勝手知ったる飛田火葬場長の案内で
火葬場の骨捨て場に忍び込んだ。

三人は米軍の監視に見つからぬように、
闇夜の中で外套を頭からかぶり、
身をかがめながら作業を始めた。

三人は暗がりの中で音を立てないように、
根気よく手探りで遺骨を探し集めた。
七人の遺骨は全体の一部でありながら、
大きな骨壷に一杯分を集めることができた。

火葬場から盗み取ってきた遺骨は、
湿気をとるために再度焼かれた。
遺骨のことが世間に漏れては
米軍の咎めを受けることになる。

そこで三文字の甥で上海の戦線で戦死した
三文字正輔の名前を骨壷に書いた。
これを興禅寺に預けて供養することになったのが、
A級戦犯として処刑された七名の秘められた供養であった。

*********

横浜市久保山火葬場で火葬に付されたお骨を、米兵は鉄製の鉢の中に入れて、鉄棒のような物で上から突いて、骨を細かく砕いたのです。
信じられない行為です。

そして寒風吹き荒む真夜中に、三文宇正平弁護士と市川伊男(これお)住職のお二人が、ありあわせの黒装束で、飛田火葬場長の案内で目的地に出向いたのです。

場所は、火葬場の共同骨捨て場の穴の中です。
真夜中で、暗くて、灯も物音も絶対禁物です。
見張り員に見つかったら、その場で射殺され、二度と七士のご遺骨は手に入らない。

こうして取得したご遺骨は、一時、人目を避けて伊豆山中にご安置しました。
これが昭和23(1948)年の暮れの出来事です。

日本は、昭和27(1952)年、サンフランシスコ講和条約を締結しました。
これにより「連合国統治領日本」となっていた日本というエリアは、ようやく独立した国家としての「日本国」となりました。

三文字正平弁護士は、この講和条約の締結と同時に、殉国七士の墓碑を建造をしようと運動を開始します。
そして昭和35(1958)年4月28日、東京の日比谷で開かれた東京裁判弁護団解散記念会で、墓碑建造計画を発表しました。
すると、猛烈な反対運動が起こりました。
三文字正平弁護士の地元の形原町役場には、「明るく楽しい観光地におくとは何事だ。平和な三河山頂に、暗い恥ずかしい思い出につながる記念碑を建てるのは、許すことは出来ない」などといった投書が殺到したのです。
いまにしてみれば、そういうことは反日のプロによる行動とわかるけれど、当時はそんなことはわからない。
これが民意であると誤解する人々も多く現れます。

しかし三文字正平弁護士はあきらめませんでした。
七士のご遺族、政財界での賛同者を募り、各方面の有志たちと連携し、資金と場所の確保に奔走しました。
そしてようやく愛知県幡豆(はず)郡幡豆町役場の好意を得て、三河湾国定公園三ケ根山頂に、七士の墓碑とご遺骨の埋葬を実現したのは、運動を開始してから8年後の昭和35(1960)年8月16日のことでした。

この日、三ヶ根山の「殉国七士廟」の前に、関係者とご遺族が列席し、初の慰霊祭が静かに執り行われました。

その日以来、毎年4月29日の昭和天皇御誕生日には、この地で慰霊祭が採り行われ、今日では七士廟の周辺に、大東亜戦争での戦没者を祀る各部隊の慰霊碑が並ぶようになりました。
いまでは、82の慰霊碑が建立され「殉国七士廟」とともに並んでいます。

平成22(2010)年4月29日、みどりの日と名付けられた元昭和天皇誕生日において、第五七回殉国七士慰霊祭が三ケ根山でおごそかに行われました。

この日、板垣正氏が挨拶に立たれました。
板垣正氏は、元参議院議員であり、現・日本遺族会事務局長、興亜観音を守る会会長であり、故・板垣征四郎氏の次男である方です。

氏は、この日、次のように語られました。
「昭和27年4月28日に日本が独立回復をしたとき、
 全国で4000万の署名が集まりました。
 署名は国会を動かし、
 東京裁判で戦犯とされた人々が
 『日本にとっては戦犯ではない』と名誉回復を決められました。
 なのにどうして未だにA級だのB級だの揉めるのか。
 どうして事情がわかっている自民党の議員ですら、
 はっきり説明出来ないのか。』

生前にどんな人であったとしても、亡くなられたら「仏さん」というのが日本の心です。
すくなくとも、遺骨を鉄の棒でぐちゃぐちゃにするような冷酷さは、日本人のものではありません。
戦後を生きた私たち日本人は、先の大戦の悲惨さから、なんとはなしに戦争や戦前の様々な事柄から目をそむけてきたような気がします。

事実を認識せずに、ただなんとなく、そこに薄いベールをかけて見ないようにしてきたといえるかもしれません。
それは、戦争の悲惨さに対する大きな反省でもあったでしょうし、子や孫に対して、二度とつらい思いをさせたくないという思いやりだったのかもしれません。
あるいは、戦前の辛さや、愛する者を失った辛さよりも、戦後の「復興」を大事にしたことの裏返しだったかもしれない。

しかし、そうやって国の復興を遂げてきた一方で、日本が忘れられていき、その反対側で、反日主義者たちによって、捏造された嘘の歴史観を刷り込まれ、多くの日本人は、日本人としての誇りや自信さえも失いかけているのが、こんにちの日本であるように思います。

日本を取り戻す。
そのためには、ほんとうのところ、当時何があったのか、正しい事実を謙虚に「学ぶ」という姿勢が、いまもっとも求められているのではないかと思います。

 

ねずさんの記事より転載

 

 

 

 

私たちは、捏造された嘘の歴史を刷り込まれて来ました。

未だにA級、B級戦犯とされた方々を犯罪者と思っている日本人もいるかと思いますが

それは反日主義者たちによる捏造です。

真の歴史を知って、英霊の方々の名誉回復がなされることによって日本を取り戻す

必要があります。

 

【東條英機】敵国をも魅了した日本陸軍大将が青年へ告げる想いとは【朗読】

 

 


 

 
 
 

今、世界は大変な時代に突入しました。

命懸けで戦った先人の遺志を受け継ぎ

今こそ立ち上がる時です。

 

 助け合い主義 https://tasuke-i.jp/

 

 

 

 

 


 

 

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