【義烈空挺隊 慰霊・顕彰の集い】 ④ 基調講演【村田春樹】

「嗚呼! 沖縄戦の学徒隊」 2019/5/19 靖国神社 偕行会館

 

村田春樹氏の基調講演の内容を通して、あらためて沖縄戦の状況が分かって来ましたので

ご紹介いたします。

 

ここでご紹介されていたのは、「嗚呼 沖縄戦の学徒隊」著者 金城和彦

という昭和53年に出版された古書です。

 

 

「これほど全ページ泣けて泣けてどうしようもない本はない!!と村田春樹氏がご紹介されています。

紹介を受けて購入しようと思ったところ、なんと!自宅の書庫の中にこの本があったのです。びっくり

おそらく父が買っておいたものでしょう。

これまで目を通していなかったことに申し訳なさを感じました。

  

日本の学者の中村粲先生は、

全編これ「海ゆかば」若くして散華せる学徒隊への哀悼の叙事詩となっており、実に読むものをして痛恨側々、熱涙滂沱たらしめずにはおかない。と、この本を紹介されています。

 

沖縄では、戦後反日左翼により捻じ曲げられた歴史が伝えられてきました。

そのために今でも日本兵に対する反感があります。

「日本兵が自決を迫った」とか

「壕にいて泣く赤子を日本兵が殺した」とか

慰霊の日に流される番組をこれまで私は何度も見て来ましたが

いずれも反日的な内容です。

アニメもありましたが、日本兵がひどく悪いように描かれていました。

まるで中国共産党が作った反日映画のようです。

あれを見せられたら日本軍が沖縄に対して悪いことをしたと誰もが

思ってしまいます。

洗脳というのは恐ろしいものだと思いました。

また、沖縄に本土から訪れる修学旅行生は、沖縄の平和学習と言って

ひめゆりの塔などに行きますが、

いずれも反日左翼的な表現で、結局日本兵に沖縄は酷いことをされたという

被害者としての立場で教育していきます。

わたしは、この本を読んで、

沖縄県民は斯く戦えり、そして、日本兵の皆さまも立派に戦った!!のだと

訴えたい気持ちになりました。

そうしないとこの沖縄の地に眠る英霊の方々が浮かばれません。

 

村田春樹氏の講演の中で、沖縄戦の流れを順序良く説明されています。

説明された内容を抜粋していきます。

 

1945年

3月23日 大東島守備隊「敵機動部隊近接中」と打電

  26日 慶良間列島に上陸

     伊舎堂用久大尉特攻

  29日 ひめゆり学徒隊軍属として

     入隊兵舎で卒業式

  31日 鉄血勤皇隊二等兵として入隊

4月1日 米軍中部海岸に上陸開始

  18日 伊江島で女子救護班員5名断髪男装して斬り込み、

壮烈な戦死。

30日 鉄血勤皇隊爆雷攻撃で敵戦車多数破壊

5月2日 牛島司令官「全軍の北上」を命令

 

日本軍が電波で傍受した米国の戦況を伝えるニュース内容

 5月21日ロイター電「日本軍は集中砲火と肉弾戦法によって反撃し

我が軍はコックやパン焼き迄加えた後方全部隊を注入したが、ついに

2百メートル押し返された。

この戦闘における死傷者は想像を絶し、ある中隊のごときは、240人のうち生存者2名、

他の中隊も8名に減じた。

 

5月24日義烈空挺隊強行着陸

ひめゆり学徒隊南部に撤収

6月13日 大田實中将自決

「沖縄県民斯く戦えり」

帝国海軍の沖縄防衛司令官、大田実中将の最期の電文である。

(全文はこちら)

 

18日

バックナー司令官(中将)戦死

イアスレー師団長(代将)戦死

ひめゆり部隊解散

21日 鉄血勤皇隊斬り込み

23日 牛島軍司令官

長参謀長自決

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3月25日

慶良間列島阿嘉島

・特攻部隊は阿嘉国民学校高等科児童約80名を

含む斬込隊(四個中隊)を編成し、二個中隊は

午後2時敵陣に突入し、約4時間激戦を展開、

一個中隊は舟艇に乗り込み敵艦船に向けて出撃した。

もう一個中隊は斬り込みに成功。

・敵は次第に敗退してついに舟艇をもって母艦に退却した。

 

伊江島

4月18日

女子救護班員

真栄田節子(23)

大城ハル子(26)

大浜寿美子(26)

永山はる子(24)

崎山ヨシ子(21)

五名は髪を切り落とし軍服を着て男装となり、

救急袋と爆雷を持って壕を出た。

夜間行動の為背中に白布で円形の標識をつけていたが

これを最後に帰って来なかった。

 

19日従軍記者アーニーパイル 戦死

 

挺身隊の歌

なびく黒髪きりりと結び今朝も明るく朝露踏んで

呼べば応える友の歌

ああ愛国の血は燃える

われら乙女の挺身隊

 

                                     生徒数 死者数   

師範鉄血勤皇隊             386人  224人  58.0%

一中鉄血勤皇隊・通信隊 371人  210人  56.0%

二中鉄血勤皇隊・通信隊 144人  127人  88.2%

三中鉄血勤皇隊・通信隊 363人  37人  10.2%

工業鉄血勤皇隊・通信隊 94人   85人  90.4%

農林鉄血勤皇隊・通信隊 173人  41人  23.7%

水産鉄血勤皇隊・通信隊 49人   23人  46.9%

那覇市立商工鉄血勤皇隊・通信隊 99人 72人 72.7%

開南中学鉄血勤皇隊・通信隊        81人  70人 86.4%

宮古中鉄血勤皇隊・通信隊           不明0人 0.0%

八重山中鉄血勤皇隊・通信隊        20人 1人 5.0%

県立八重山農学校(男子)八重農鉄血勤皇隊 不明 不明 不明

合計 1780人 890人 50.0%

 

「沖縄新報」

天長節を期して聨合艦隊が敵艦隊を撃減。

「戦争が終ったら入学できるぞ」

 

5月下旬 遺書遺髪を甕に入れて埋めて隠した。

(昭和25年甕を発見。)

 

4月に入りほどなくして生徒たちに軍属の給与が支給されたが

一人残らずそれをお国のために役立ててもらおうと、病院長に

献金を申し立て将兵を感動させた。

 

5月10日、浦添にて隊員5名即死

松本哲雄(本科2年)は右足の大腿部を付け根からもぎ取られ苦しそうに

呻いていたがやがてはっきりと「天皇陛下万歳」と唱えて絶命した。

級友の比嘉盛栄は戦友の名を呼びながら「後を頼むぞ」と言い残して

絶命した。

彼の体には爆弾と手榴弾がしっかりと結びつけられていた。

5月11日知念宏二と川平朝介二等兵は壕をほんの少し出たところで

耳をつんざく至近弾が炸裂あっという間に下半身血に染まる重傷を受けた。

しかし彼は手当の甲斐なくついに午后8時頃、最後の力を振り絞って「天皇陛下万歳」と

叫び息絶えた。

最後の埋葬

6月21日の戦闘

仲村昌貞二等兵(師範本科3年生)「大日本帝国万歳」を叫んで絶命。

 

Markey報告書と第10軍報告書

(LastBattle)の神経精神病患者の数

全負傷者30,917人

精神神経症患者3,227人

割合10.4%

 

若き乙女たちが爆雷を持って男の格好をして

特攻したことを考えてみてください。

地上戦で戦ったのは男子だけではなかったのです。

 

まだ若い中学生、高校生くらいの子供たちが肉弾となって特攻されました。

沖縄県民も日本国民とおなじように祖国日本を愛し祖国のために勇敢に戦って

いかれたことを心に刻みたいと思います。

 

アメリカはこの地上戦で勝利したにもかかわらず

日本兵のあまりの強さにアメリカ軍の兵隊が

精神が病んでしまい戦いにならない者たちが3000名もいたのですね。

日本人、そして沖縄の方々が如何に勇敢に戦ったのかがわかります。

 

昭和高女

12、3歳だろうか県立一中の生徒となのった重傷の少年兵に

「何か欲しくないかい」と聞くと

弱弱しい声で「黒糖」とこたえた。

少年は壕の中で回診に来た軍医の治療に痛みさえ訴えずに眠り

続けているようだった。

すると突然

「天皇陛下万歳!」と力を振り絞って少年がはっきり叫んだ。

川北軍曹と川崎中尉が起き上がった。

少年はそれきり動かなかった。

あまりにも早い死であった。

 

翌日川北軍曹と川崎中尉は日本刀を杖にして立ち上がり。

「女学生さん、いろいろとお世話になりました。天皇陛下万歳の声を

残した少年兵を思うとわたしたちは最前線に行くべきです。」

そういって三角巾で腕を吊った川崎中尉と傷ついた足を引きずる川北軍曹は

壕を出て行った。

 

第一高女

・6月22日解散命令、皆で校歌を静かに歌い。別れの歌、ズックかばんには

折り目のついた制服

・鉄血勤皇隊のしている一中の生徒が足に重傷を負って運ばれてきた。

手術を受けながら「一日も早く前線に戻れるようにしてください。お願いしますと

しきりに嘆願していた。その健気さはとても14,5歳の少年とは思えなかった。

 

重傷で寝ていた国吉昇二等兵に、恩賜のたばこが支給された「俺はもうだめかもしれん。すまんがこの俺の父にこのたばこをやってくれんか。」

「大日本帝国万歳と雄たけびを上げて壕内を飛び出した瞬間8,9人の敵兵に取り押さえられ、無念のあまり自分のを指して「撃て」と絶叫した。

悔し涙が後から後からとめどもなかった。

 

第二高女

高橋伍長

「学生さんたちを私が連れておりながらこんなひどい目に遭わせてしまって本当にすみません。

もうここも危ないから今晩のうちに早く退避してください。」と言い残して

息を引き取った。

いまはのきは迄みんなの身を案じてくれた高橋伍長はもういない。

 

静かにお経を唱える声が聞こえてきた。鈴木上等兵である。

従軍するまえは僧侶であったと話していた。

お経は心に食い入るように低く静かに響いて流れた。

やがてそれが終わると上等兵は「ここから出るんだぞ、最後まで生きるんだぞ」と

言いのこし銃口を喉にあて、足でひきがねを引いて自決した。

本当に立派な最後だった。

 

6月20日まもなく看護隊に集合の命令が下った。

みんなはいよいよ斬込隊に参加させてもらえると喜びに胸を高鳴らして急いで隊長の前に

集まった。

病院長の小池少佐は

「今日まで、軍と行動を共にしていただき本当にご苦労であった。

しかしもはや事態はこれ以上皆さんを一緒に行動させることはできなくなった。

皆さんは之から壕を出て何とかして北へ脱出していただきたい。

兵隊は歓呼の声に送られてきているし。

また皆さんは勉強途上にある生徒であり、而も将来国を背負ってもらわねばならない大事な

身である。

死ぬことだけが国に対するご奉公ではない。

わたしにもみなさんくらいの子供がいるが

「皆さんを見ているとどうしても自分のこどものように思えて一緒に死地に連れて行くのは

忍びない。皆さんは他府県の生徒に比べると本当に気の毒でならない。

それだけにぜひ生き延びて沖縄戦に於ける学徒隊の精神を他府県の生徒に知らせてもらいたい。

どうかわたしのいっていることをよくかみしめてほしい。」

と心からの訓示をした。

 

ここまでの内容を読み進めると

日本兵も瀕死の状態にありながら、女子学生に感謝し、その娘たちの将来を憂い、「生き延びて!」と、

力強いメッセージを送っています。

本当ならば沖縄県民を巻き込むことなく、日本の軍隊だけで敵をやっつけたかったのでしょうが

戦況があまりに悪化したために、女、子供までも闘わせなければならなかったことは

軍人さんにとってどれほど無念で辛いことだったのだろうかと思います。

戦後、勇敢に戦った方々がないがしろにされ、沖縄県民、修学旅行生などの学生たちに誤解され

反日左翼の材料にされていることは許し難きことです。

 

~ここからは写真を紹介します~

 

日本全国でこのように学生も訓練していたが、実際に地上戦で敵国と戦ったのは、

この沖縄の生徒たちだけです。

県立第一中学校(現在の首里高校)の生徒の在りし日の姿である。

 

有史以来いまだかつてなかった女子学徒の出陣・・・。

写真は乙女たちがいまだ学びの庭にあるとき、大和撫子の意気を示して、

なぎなたに励んでゐる健気なりし姿である。

県立第一中学校(現在の首里高校)の生徒たちが鉄血勤皇隊を編成

銃の手入れをする健児たち。

 

ひめゆり学徒隊

まだあどけなさが残る子供たちがだぶだぶの大きな戦闘服を

まくりあげて着ている姿

こんな小さな少年まで戦場で戦いました。

 

敵艦からの砲撃

 

県立第一中学校(現在の首里高校)の校歌を紹介します。

この校歌は国を思い潔い凛とした若者の姿を思い浮かべます。

現在は、若干書き換えられているのが残念です。

※現在の校歌

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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