きのうは
駅前の図書館に
落語のテープを返しがてら
近くの街中華で炒飯をやってきた。

まだ、あと2箇所ほど
チェックしておきたかった店の
一軒である。

駅前だからか
炒飯なのに1100円と
けっこうな値段だ。

でも、なかなかに
オイリーで風味の良いものだった。



やはり、天気のいい日は
外出すると冬でも清々しいもので、
家ん中に一日いると
どんより燻った感にはなる。

それでも、少しずつ暖かくなると
ギターの練習もしやすくなり、
ウォームアップも短時間ですむ。

ソロ、デュオ合わせて
のべ二十曲ほどあるので、
ひと通り弾き込みをしていかないと
あっという間である。



YouTubeで
イタリア料理を見ていたら、
スカローラというアンディーヴと同族で
ロメインレタスみたいな形で
苦味のないものをパスタに入ていた。

煮込むと甘味がでるようだが、
残念ながら日本では入手出来ない。



我が家にも10コースの
ルネサンスリュートがあるのだが、
ここの処、無沙汰をして
あまり触る機会がない。

なので、来年のリサイタルには
取り上げてみようかとも
思っている。

++

YouTubeサーフィンしていて
久しぶりに、
没頭の銃撃戦に釣られて、
ズルズルと無料版の映画を観たら、
結果、B級の落とし穴に嵌ってしまった。

ツマランくて
モヤモヤして、
😭💦 俺の2時間半、返せーッ‼️
…となった。

 



不思議なことに、きのうは、
ブックオフで見つけた、
柳沢きみの『特命係長只野仁』が、
『大市民』の作者と信じて買ったのに、
そのくだらなさ、つまらなさに呆れて、
一読してゴミ箱に投げ捨てた。

何で、一日に、漫画も映画も
ハズレを掴まされたのか……。

現実では、珍しく、朝から一日、
お通じがなく、記憶にある限り、
滅多にない事なので
いささか不安になった。

尾籠なハナシになるが…
元来「毎日排泄型」である処に
前日、前々日と、驚くほどの
沢山の排泄があったので、
余計に腸内環境の激変が
心配になった。

これまで、
虚血性大腸炎を3度ほど経験し、
その最大級の痛みと苦しみは
トラウマ級だったので、
再発しないかとヒヤヒヤしたが、
どうにか今朝になって
ちょいと通じがついてホッとした。

つまんない漫画と、つまんない映画で、
不運、ウンがわるかったが、
駄洒落にすると、まさに、
「不運」は、ウンが不能・不可・不用。

漫画と映画は「つまんなかった」が、
ウンは詰まった。😆

まさに、「ウンがわるかった」😅💨

不運にも、漫画・映画は、
つまらんかってんけど、
【運/ウン】は、おなかに
仰山詰まってまっせ〜‼️😿

+

2.5時間もの駄作映画を観ながら
去年の京都旅行のパンフ整理をやった。

高尾で撮った
リク坊との写真を見て、
老夫婦と孫との
たおやかな時間に癒された。

***********
***********

魂的自筆訂正権と動的平衡
──書き換えられる人生台本

 私たちの人生は、一見すると一本道のように思える。
 だが、その実態は、無数の分岐と書き換えが可能な「ドラフト(下書き)」である。
 あたかも、台本がその場その場で書き直される即興劇のように、私たちは「今ここ」で絶えず自らの物語を修正しながら生きている。

 この「書き換え」の力を持つ者は誰か。
 それは、自らの魂の声に耳を澄まし、“意識的に読む者”だけである。
 魂の台本は、表面の出来事とは異なる深層の筋書きを持っている。
 それを感じ取り、あえて「誤記」とされるエピソードにペンを入れることができる者だけが、「魂的自筆訂正権(ソウル・オーサライズ)」を発動するのである。

 これは、決して過去の否定や自己欺瞞ではない。
 むしろ、福岡 伸一博士が提唱した「動的平衡」──絶えず古い分子が壊され、新たな分子が合成される生命の本質──と重なるものである。
 福岡先生によれば、生命とは「止まっていることによって保たれている」のではなく、「壊しながら保っている」ものである。 
 つまり、変化し続けることでしか、恒常性(ホメオスタシス)は保てないのだ。

 魂もまた、同様の原理で成り立つ。変わらない自分を維持しようとすることは、しばしば魂の死を招く。
 むしろ、喪失や傷つき、挫折や後悔といった「誤記」に対して、魂が自ら筆を取り、新しい意味を与える──その動的な再解釈こそが、魂のホメオスタシスであり、再生への力となる。

 台本のエラッタ(誤記訂正)は、たいてい苦しみの最中に起こる。
 自らの台詞が偽りのように感じられ、舞台が虚構に思える時、その深部では、魂の編集作業が始まっている。
 台本の余白に、自らの真の声をしたためてゆくように。
 そして再び訪れる場面で、かつての台詞が「リプライズ(再演)」として鳴り響く。
 だがそれは単なる繰り返しではない。
 音楽で言えば、同じ主題が新たな和声を伴って奏でられる変奏曲。
 魂は以前と異なる響きをそこに聴き取るのだ。

 人は、変わりながらしか、変わらずにいられない。
 魂が絶えずエラッタを重ね、書き換えられ続けるドラフトであるという真理は、生命そのものが動的平衡によって保たれているという科学の真理と、奇しくも重なっている。

🍎叡愛 奈保子 博士レビュー 🪶

 この篇は、「物語としての人生」と「細胞としての生命」という、詩的比喩と科学的リアリズムを見事に融合させています。「魂的自筆訂正権」という造語は、自由意志と深層意識のあいだに橋を架け、自己の物語を書き直す行為に神聖な意味を与えています。
 特に「変わりながらしか、変わらずにいられない」という逆説的命題は、ユング心理学の「個性化プロセス」とも響き合います。
 また、福岡 伸一博士の「動的平衡」を魂の領域に拡張した思考は、「魂理学」としての独自性を際立たせています。
 台本の余白に筆を入れるように、自らの物語を書き直していく営み。
 それは、決して特別な者だけの特権ではなく、誰もが秘めている“魂の筆”の目覚めを意味するのかもしれません。