ある小さな王国には、たいそう腕の立つよりすぐり演奏者たちが集まった、王様お気に入りの王立楽団がありました。クラシック好きの王様の事、幼い頃から世界各地の有名な楽団の演奏を聞いており、耳もこえておりましたので、そんな王様の楽団にいられる事は大変名誉な事でもありました。その楽団ではバイオリニストもチェリストもコントラバスの奏者も誰だって、自分の腕に自信をもって今日も優雅な演奏を人々に聞かせているのです。
しかしそんな楽団をよく見渡せば、一人の年老いたラッパ吹きがいたのでした。いつの日も彼はどの奏者よりも早く練習場にやってきて、自分のパートナーであるトランペットを丁寧に調律しながら、それが終わるとその日演奏する楽曲の、一音一音ごとを大切に確認して奏でていくのでした。
彼は午前の楽器ごとに別れての練習でも、午後の全体練習でも、もう何百回と弾いた楽曲だって誰よりも真剣に練習に取り組むのです。一日の練習が終わって、一人、また一人と楽団員たちが帰って行くなか、いつも最後まで黙々と使い終わったトランペットを磨き上げているのも彼でした。まさに、彼は誰より音楽を愛する理想的な奏者なのです。ただの一点、彼の演奏が明らかに他の奏者の誰よりも下手くそな事を除いてはです。
楽団員たちは口々に言いました。なぜ彼のような者がこの楽団にいるのかと。腕の立つ者の中から厳選された奏者だけが集まるこの楽団においては、いいや、おおよそプロの奏者の楽団においては、このような事が言われるのも無理からぬ事です。幾人かの奏者たちは、団長に何度も何度も文句を言いに行くほどの事でした。団長は誰が抗議しに来ても決まって同じ事を言います。あのラッパ吹きは王様が直接お選びになった者なのだと。
毎年、年に一度その一帯の国々では、名のある楽団が一堂に会して、腕を競い合う大きなコンクールが開かれておりました。もちろん王様の楽団もこのコンクールには毎年参加しています。ですが決まって何の賞も受賞出来ずに終わっていたのでした。それどころかひどい演奏だと言わんばかりに笑う者さえいました。
ある年もまたコンクールの時期が迫って来て、団長はひとり頭を抱えておりました。国民の楽団に対する期待は年々膨らんでいくばかり。毎年コンクールが終わると皆、肩を落とします。腑甲斐ない結果に怒りを露にする者さえいます。そしてその怒りの矛先は決まって団長に向かうのでした。あるいは笑い者になるのもそうです。
団長はその年も突きつけられるであろう結果を思うと、すでに胃が痛くなる思いでありました。
あのラッパ吹きをメンバーから外してしまいたい。そう思って団長は今までにも幾度となく王様にお願いに伺った事もありました。しかしどのように団長がお願いしても、王様は一度たりとも首を縦に振る事は無かったのでした。
その年も団長はダメ元であろうとも、王様にお願いするために城へ向かったのです。朝一番に城へ向かった団長は、ずいぶん客間で待たされ、もう陽が傾き始めた頃、ようやく謁見の間に通されたのでした。久しぶりに見た王様の顔は苦労が多いのか、前にもましてしわが深くなっているようでした。団長はおずおずと話し始めます。
「陛下、お久しぶりでございます。謁見の栄誉をたまわりましたこと、大変畏れ多く思います。この度も私からお願いしたき事がございまして伺わせていただきました。」
これ以上無きほど頭を下げます。王様の表情はチラッとしか伺えませんでしたが、きっと毎度同じ話の事、飽き飽きしているのでしょう。それでも団長は同じような話を王様にせずにはおれませんでした。
「ご存じかとは思いますが、今年も例のコンクールがある時期でございます。毎年、多く国民の皆様方よりご期待を頂いているのですが、なかなかご期待に沿う結果には至っておりません。多様な原因があり、私の不徳のいたすところではございますが、一つに技量の見あわぬ奏者がいる事があります。その者は年老いたトランペットの奏者でございます。陛下、直々にお選びいただきました奏者ではございますが、この者いささか技量に劣りますゆえ、今年のコンクールではメンバーから外させていただきたいのでございます。」
団長が見た限りでは王様は少しも表情を変えませんでした。王様はおもむろに顎に手を添えて話し始めました。
「余はそのような話、毎年聞いておるな。そして結論もいつも同じだ。今回だって変わりはせぬ。ならん、あの者を外す事は認めぬぞ。」
まったく抑揚をつけずに王様は言い切りました。団長は勇気を出して言います。
「陛下、お言葉ではございますが、あのコンクールは素晴らしき技量を持つ者たちが、それを競い合う場でございます。あの者の技量で立つのは相応しくないかと思います。」
「ならば尋ねよう、相応しい技量とはどのようなものだ。」
「はい、人々を感動させるような、深い演奏が出来る事にございます。」
「あの者がおれば、それができぬと? そのような事は決してあるまい。」
「演奏は皆でするものでございます。足を引っ張る者がいますとどうしても上手くいきません。」
王様はただじっと団長の目を見つめていました。
「聞こえぬ音を聞くのも音楽であろう。真に音楽を解する者であればあるほど、その事がよく分かるものではないのか。結果を残せぬのを、あの者の技量のせいと考えていてはいつまで経っても同じ事ではあろう。」
「恐れながら私には、陛下が何をおっしゃりたいのか分かりかねます。何卒、一度あの者を外して演奏させていただきたくお願いいたします。」
団長にも王様が深くため息をついたのが分かりました。王様はしばらく目を閉じて何か考えていらっしゃったようですが、一言
「余の考えは変わらぬ。今年こそは期待している。最善を尽くせ。」
とだけおっしゃったのでした。
黄昏時、団長は肩を落として、城門をくぐろうとしていました。王様はああおっしゃったが、今年も結果は変わるまい。足取りも自然に重くなります。その日は家へ帰る道のりが来た時の三倍は遠く感じられました。
そんな出来事があって三日ほど経った日の事です。朝早く、団長の家にお城から手紙が届きました。立派な便箋に王家の紋章の印が押されたものです。はて、もしかすると王様からの手紙だろうか。中を開けると、以下の内容で大臣のサインがしてありました。王様よりはずっと若い大臣で、国中ですでに利発である事で有名でした。
手紙には一言、コンクールにおける人選の件で話があるのですぐに来るようにと書かれていました。団長は大臣直々にこの件で何の用があるのかと、いささかいぶかしみましたが、さっそく城へと向かったのです。
やはり朝一番で団長は出かけ、城門で衛兵に大臣から呼び出しを受けた事を伝えると、いつもの様に客間で待たされます。落ち着かず待たされて、ようやく昼が過ぎたといった頃、大臣の執務室へ通されました。そこは十数畳ほどの部屋で、立派な執務机に椅子、後は何やら難しそうな本がぎっしり並べられた本棚がところせましと置かれていました。
団長は深々と頭を下げたのち、大臣の姿を初めて見たのでした。四十にもなろうかといった顎髭の若々しい男でした。しかし目尻のつり上がった感じが厳しそうな感じを与えます。
「お招きにあずかりまして、光栄でございます。私が王立楽団の団長でございます。」
団長はうやうやしく再び頭を下げました。
「この度、あなたをお呼びしたのは他でもありません。先日、陛下とあなたが話し合った、コンクールの人選の件です。あなたは腕の劣ったトランペットの奏者をメンバーから外したい。彼がいてはとてもコンクールでは入賞できないと考えているからですね。」
「はい、私の楽団は各地から選び抜かれた技量を持つ奏者が、日々切磋琢磨して技術を磨き上げ、多くの方々から高い評価を頂いているのです。この一帯の国々の楽団と比べてみましても、どこにも引けを取らないと、私自身感じております。件のコンクールでも入賞出来ることは当然の事かと思います。入賞できぬとすれば、それどころか笑い者になる事さえあるとすれば、技量の劣る例のトランペットの奏者に原因があるとしか思えないのです。」
大臣はなぜかそこまで聞くと少し微笑んで
「陛下はあくまでもその奏者を使い続けろとおっしゃるわけですか。その事についてあなたはどうお考えなのですか。」
「正直に申し上げまして、あの者を使い続けるのならば、この度も結果は同じかと思います。短期間に劇的に技量を上げられるのでもなければですが。」
大臣は今度ははっきりと笑いました。団長はなぜ笑われるのか検討もつきませんので、少し不愉快でした。
「あなたが言うように、短期間で技量を上げることは、普通に考えては無理でしょうね。しかし普通に考えればです。」
ずいぶんもったいつけた言い方をして、少し間を空け
「ですが不可能ではありませんよ。人は楽器を選ぶ事が出来るのですから。」
「? お言葉ですが楽器がいくら良くても、使いこなせる技量がありませんことには。」
「ただの楽器じゃないのです。この世界には古来より様々な力を持つ楽器がありましてね。その中には摩訶不思議な魔法の楽器もあります。例えば素人同然の奏者でさえ、世界最高峰の奏者と比類するほどの演奏を可能にするものだってあるのです。トランペットもありますよ。」
団長は固くなって大臣のその言葉に唾を飲み込みました。大臣はそんな団長の様子に満足そうに続けます。
「ただしこの楽器を使うには条件がありましてね、この楽器は人の音楽へのまことの愛情を力にして不思議な力を発揮できるのですよ。」
大臣はおもむろに椅子から立ち上がり、何て事はないいつもと同じ窓の外の景色を眺めます。
「どういう事でしょうか。」
団長が少し気味悪がって躊躇しがちに訊くのが、おもしろいのでしょうか、わざとらしく充分ためてから大臣は
「音楽への心よりの愛情なしには使えない楽器という事ですよ。音楽への愛情をこの楽器に分けてやるわけですね。」
なるほど、それが本当なら素晴らしい楽器です。団長にとっては願ったりの楽器でした。
「どうします。その楽器を使いたければ、世界中の楽器を集めているコレクターを紹介しましょうか。それとも例年どおりコンクールで笑われるかはあなた次第ですよ。」
団長はそれならばさっそく試してみたくなって、その楽器を持っているコレクターに会わせてもらうことにしたのです。
その他の用事を済ませ夜になってようやく家に着いた団長は、考えていました。いい加減コンクールで結果を残さないとならないのは紛れもない事実だ。これ以上、いつもと同じ結果に甘んじてはいられない。そんな楽器を使わせるのはいささかルール違反かもしれないが、期待に応えるのも我が楽団の使命だ。それに何より私自身、使ってみるのが楽しみでもある。そう考えると団長は久しぶりにゆっくり眠ることが出来たのです。
そうして団長が眠っていましたら、夜遅く遠慮がちに短い間隔でドアを叩く音が聞こえたのです。それなりに長い時間続いていたのでしょう。なんだか今日は風の音がうるさい気がして団長は目を覚ましたのです。
久しぶりにゆっくり眠れていたのに風の音に邪魔されるとは。団長はベッドから起きて何の気なしにドアへ近づいたのです。風がドアをノックするかのような、その弱々しい音は一定の間隔でなっています。団長はなんだか少し変だなといぶかしみながらドアを開けてみたのです。
団長の部屋の薄くぼやけた灯りに照らされて暗闇に浮かび上がるような黒いシルエットが現れました。灯りに誘われるようにそこにいたのは、黒いつば広ろ帽子を被って、白い手袋をした背の少し高い見知らぬ男でした。大切そうにトランペットらしき楽器の入ったケースを抱えて立っていたのです。
「夜分遅くに失礼します。大臣殿から話を伺って参った者であります。例の魔法の楽器をお持ちいたしました。」
闇に紛れそうなその外見とは裏腹に男ははっきりした口調で言いました。
「こんな夜中にわざわざですか。」
いい加減にしてくれとばかりに団長の声には、いくぶんかの苛立ちが隠せないでいました。
「善は急げと言いますでしょう。それにコンクールまでそれほど時間もありません。ご無礼は承知でこんな時間に参ったのです。」
世の中の摩訶不思議な楽器を大変な苦労をして集めているとの男です。やはり変わり者なのかもしれないなと団長は思いました。
「そうですか、それはご苦労様です。狭いところですがお入りになってください。」
団長は男を部屋の中に入れたのでした。男はドアを叩いていた時と同じ様に遠慮がちに部屋へ入ると、団長に促されるままテーブルの前のくたびれた感じの腰掛けに座りました。そしてテーブルに慎重にケースを置いたのです。
団長と向かい合って、少しの間、男はにらみつけるかの様に団長を見つめた後、今度は瞳の奥にある心の芯を掴みとるような視線をほんの一瞬見せました。男は一つ咳払いをしてから、話し始めます。
「私が今日、お持ちしましたのは、大臣殿からも伺っているかとは思いますが、どんなに技量の無い奏者でも、とても素晴らしい演奏が可能な楽器です。しかしこの楽器の力を発揮するには前もって、音楽へのまことの愛情を吹き込んでおかなければならないのです。失礼ですが、あなたにそれが出来ますか?」
「もちろん出来ますとも。」
躊躇なく団長は言い切りました。団長は思いました。音楽への愛情は一点の曇りも無い。これは心から自信を持って言える事だ。
男はしばらく何かを考え込んでから、ほとんど聞こえないような声で
「聞こえない音が聞こえるのですね?」
とつぶやいたのです。
おもむろにケースから一点の曇りもないほど、徹底して磨きあげられた美しいトランペットを取り出して
「ではこれをお貸ししましょう。あなたの心が楽器に届くと良いですね。」
それだけ言って軽く頭を下げると、足早に去って行ったのでした。
楽器に音楽への愛情を吹き込むのか。曲がりなりにも幼い頃から音楽の為に生きてきたのだ。団長は朝になったら、心を込めてトランペットを演奏するぞと意気込んだのです。
翌朝は空には雲一つなく、澄みきっていて、なぜだかいつもより遥かに高く感じられる日でした。団長は窓から差すうららかな陽の光にさわやかに目が覚めると、顔を洗いながら素晴らしいトランペットの演奏を思い浮かべていました。
いつもよりやや少なめに朝食をとってから、団長はさっそくトランペットを手に取りました。しかし改めて見ると本当に美しいトランペットだな。鏡の様に団長が写ります。団長はそっと口をつけて、ゆっくり一音一音を確認するかのように吹いていきます。なんだかごく普通のトランペットの音色がします。まあ今から愛情を吹き込むのだから、当然と言えば当然か。それからたっぷり二時間はかけてコンクールでの課題曲も含め、音に心を乗せながら、団長は吹いていったのでした。
団長が練習場に着いたのはいつもより遅れた時間でした。団長が遅れて来ることなど珍しかったので、皆何かあったのですかと尋ねたそうでしたが、それよりも団長が手にしている立派なトランペットのケースに興味があるようでした。団長は皆の前に出ると両手を大きく打ちつけてならして
「皆さん、日々切磋琢磨しながら、今度のコンクールに向けて練習をしているのは、楽団の一員としてまさにあるべき姿です。より一層の技量の高みにのぼるため、今日は素晴らしい楽器をお持ちしました。いつも朝一番にやって来て、練習を始め、夜は一番最後まで楽器の手入れをして帰る。そんなトランペット奏者の彼に私から素敵なトランペットをお貸ししましょう。」
まだ実際に老いたラッパ吹きが演奏をしていないにもかかわらず、団長の頭には感慨深いメロディーが響いています。胸を張りながらラッパ吹きのもとへ近づき
「さあ、君のいつもの絶えまない努力に私からのささやかなプレゼントだ。心置きなく演奏しておくれ。」
老いたラッパ吹きは、団長から差し出されたトランペットを僅かにだけ見てから
「僕にはいつも自分で大切にしているトランペットがありますので。」
とだけぶっきらぼうに言うのでした。
「いやいや、君が自分のトランペットをとても大切にしているのは知っているよ。ただたまには気分を変えてみるのも良いものさ。それにこのトランペットは何よりも優雅な音を聞かせてくれるよ。」
「結構です。自分自身が日々大切にしてきたパートナーに勝るものなどありませんから。」
「まあ、そう言うな。とりあえず、今日一日使ってみてくれ。分かったな。」
ラッパ吹きがそれでもトランペットを受け取ろうとしないと
「いい加減にしろ。これは私のお前への厚意なんだぞ。」
団長はせっかくお前の為に用意してやったのに、全てはお前が下手くそなせいなんだぞと、怒鳴りつけてやりたい気分でしたが、いくらかイラついた声で言うに留めました。
さて一通り朝礼を終えると、楽器ごとに分かれての練習です。団長が心待ちにしていた瞬間です。いつもは全ての楽器の練習を均等にくまなく見て回るのですが、今日だけは、金管楽器の練習に付きっきりになるつもりです。団長は意気揚々と見に行ったのでした。
部屋に入ると、でたらめにおもちゃ箱をひっくり返した様な大きな音が耳に襲いかかります。いつも以上に叩きつけるがのごとき、耳に響く外れた音がします。言うまでもありません。あの老いたラッパ吹きの仕業です。しかも音量がいつもより大きい有様とは一体何事でしょうか。
団長はラッパ吹きの頭上にある柱の木目を眺めたまま、しばらく口をあんぐりと開けていました。そんな馬鹿な。確かに溢れんばかりの愛情を注ぎ込んだはずなのに。まさか騙されたのだろうか。いいや、そんな嘘を言う必要なんてないはずだ。結局、その日のラッパ吹きの壮大かつ狂った一人芝居かのような演奏は、楽団員の耳からも、団長の耳からも当分離れそうもありませんでした。
まったく意気消沈するやら、腹立たしいやら、団長は文字通り頭を抱えてまだ練習場にぽつんと一人でいました。椅子に座りもう何度目のため息でしょう。今日は例のトランペットを視界の片隅にも入れたくありません。考えたくない事が山ほどありましたので、なんとなく目を閉じていたのです。三日月がみじめな自分を笑っているかのようです。イラついた胸のうちに対して、草木をかすめる風が歌ってくれている気がして、なんだかなだめられているようなそんな夜でした。
ふと目を覚ますと時計は午前一時をさしていました。ぼやけた目をこすりながら、何とはなしに窓に視線を向けると、開けていた窓の窓枠に一羽の見慣れない白銀の鳥がいたのです。なんだろうかと思い団長がしっかり見ようと窓に顔を近づけた時の事でした。
「ずいぶんとお悩みのご様子じゃないですか。」
白銀の鳥は落ち着きはらって言いました。
「あなた、王立楽団の団長でしょう。この時期のお悩み事なんて決まっていますよね。今年も結果が出せずにコンクールで笑い者になるのが辛いわけだ。」
訳知り顔で笑って言いました。
「お前なんかに私の苦労が分かるもんか。退治されたくなかったらさっさと出ていくんだな。」
団長は苛立ちを隠せません。
「皆が帰ってからずっと、うなっていらっしゃったご様子で。どうです、この私に相談してみては。あなたたち人間はご存じないでしょうけど、鳥というのは音楽にうるさいのですよ。人知れず楽団だってあるくらいです。」
団長ははっきり言って同じにするなと思いましたが、こんな悩み相談出来る相手もいません。鳥になら愚痴をこぼしてもいいかと思って
「お前が音楽に詳しいなら、もちろん知っているだろうが、私の楽団はそれはもう素晴らしい演奏をしてみせる。しかし例のコンクールではいつも笑い者になる有り様だ。それはなぜか。あの年老いたラッパ吹きの下手くそな演奏のせいだ。あいつに皆の演奏は乱され、ペースは崩されるのだ。」
一呼吸置いて
「だが今回は切れ者の大臣が力を貸して下さった。どんな下手くそな奏者が演奏しても素晴らしいメロディーを奏でられるトランペットをお借りしたのだ。」
白銀の鳥は鼻の頭を少し掻いて
「ほう、それはありがたい事ですね。それで何を悩んでいるのです。」
団長は椅子に座り直し
「だがこの楽器、音楽への真の愛情を糧にするという。私は持てる限りの愛情を楽器に注ぎ込んでから、その下手くそなラッパ吹きに吹かせてやったのさ。」
白銀の鳥ははっと笑いながら言いました。
「何事でも本当の愛情というのは、自分では分からないものです。何もかもややこしい考えや立場は捨てさって、子供の様に純粋に音楽を楽しんだらどうです。」
「頭でそう思っても、そんな簡単にはいかないさ。」
ため息まじりに言います。
「先程も言いましたが、私たち鳥も、楽団を結成しているのです。どうです、気分転換に私たちと演奏しませんか?」
白銀の鳥はそう言うと窓からどこかへ飛び去っていきます。まだ団長は寝ぼけていましたから、今の出来事も夢のような気がしました。ボーッと三日月を見ていて、時計の針がどのくらい進んだか分かりませんでしたが、気が付くとあの白銀の鳥が窓枠に戻っていたのです。
とても大切そうに小さなトロンボーンを持っています。それとあと三羽の鳥が一緒でした。一羽の鳥は薄い緑色に空色のまだら模様が可愛らしい鳥で、なんともお似合いな小さなテューバを持っていました。もう一羽はコバルトブルーに黄色の横縞が入った鳥でこれまた、鳥向けのサイズのトランペットを抱えています。最後の一羽は白いくちばしに闇夜の一部を切り取ったかの様な真っ黒な少し大きい鳥で、小さなホルンを持っていました。白銀の鳥が言います。
「さあ、あなたは指揮棒を持って下さい。心のままに。素敵な音楽を奏でましょう。」
鳥にまともな演奏なんかできるもんか。そう思いながらも団長は渋々、指揮棒を持ちます。演奏の腕前を見るにはそれから三十秒も必要ありませんでした。うんざりするほどひどい演奏です。リズムすら合わせることが出来ず、どの楽器もまともな音さえ出ていないありさまです。大まじめに一生懸命演奏しているのは分かりますが、曲がりなりにも有名な楽団の団長である自分がこんな演奏会など五分とやっていられません。
「これはまたひどい演奏だな。あのラッパ吹きと同じレベルだ。」
それだけ言うと団長は指揮棒を片付け始めようとしました。するとどうした事でしょう。どこからともなくぎこちないけれど、それでもやさしい音色が聞こえ始めてきたのです。誰かが楽器を弾いているのだろうか。団長が音のする方へ歩いていくと、開け放たれた窓から音が聞こえてくるのです。
「そよ風の演奏ですよ。月の演奏もあります。他にもまだまだいますとも。」
団長が耳をそばだててみますと、音が聞こえてきます。フルートをはじめとした木管楽器の演奏です。確かに下手なのですが、なんだか夜の草原を一陣の風が撫でていくような、そんな風景を思い起こさせます。
「風が奏でているのですよ。まだまだ皆やって来ますよ。」
バイオリンをはじめ弦楽器の音も聞こえて来るようです。そしてこの外れた音は、まるで毎日聞いているあの音のように下手くそですが、ビオラやチェロやコントラバスなどが子どもの手を引く母親のように、優しく、支えている気がしてきたのです。
「私たちの演奏に誘われて来たんです。月と夜空の星たちのハーモニーです。私たちにお似合いでつたないけれど、なんとなくやさしい感じがするでしょう。」
そんな馬鹿なと思いましたが、練習場の側には家などもなく、もしかして本当なのかもしれません。本当のところはどうなのでしょうか。白銀の鳥は言います。
「さあ、もう一度指揮棒を手に取って。私たちと一緒に一つの音楽になりましょうよ。私たちもあなたもかけがえのない、この音楽の一つなのです。あなたも私たちとひとつになれるんですから。」
風のフルート、月のバイオリン、ビオラやチェロやコントラバスなどは空に僅かに見える星たちの演奏です。そうして風に乗って流れて来る音が、指先から体の全体へとゆっくりと溶けていき、不思議と少しずつ団長の指揮と合わさってきた気がします。そしてどういう訳か、だんだん下手くそだなんて事、気にもならなくなってきて、なんだか自然と笑みが溢れてきたのです。誰もがこんなに下手くそな事さえ気にせずに、ただただ皆と一つの音になりたくて、それでいて自由に奏でていたからかもしれません。子どもの頃はきっと誰もがそうだったような気がするな。団長は少し懐かしい気持ちになっていました。
そしてそんなこんなしているうちに、どういう訳でしょうか。練習場にバイオリンを持った見慣れた顔がやって来ました。髪を短く刈り上げた、清潔そうな感じの若者。団長の楽団のバイオリニストの一人です。そのバイオリニストのすぐ後ろからやって来たのは、恰幅の良い長身の中年男性。やっぱり彼も団長の楽団のメンバーでコントラバスを弾いています。続いて小太りの打楽器担当、さらには、いつも気の弱い、オーボエを吹く小柄な女性のメンバーまで来ました。あれよあれよと団員たちがやって来て、メンバーが皆集まりました。ただあの年老いたラッパ吹きだけは現れませんでした。急な事に頭があまりついてこない団長は
「皆、どうして?」
と絞り出すように尋ねます。
「家にいたら、確かに音楽が聞こえてきたんです。近所で誰かが演奏しているのかとも思いましたが違うようで、その音楽に何故だか自分も加わりたくなって、誘われるようにやって来たんです。」
聞こえるはずもない音楽が団長も、団員たちをも突き動かしていくかのようです。あれだけあのラッパ吹きの演奏に文句を言っていた団員でさえ、ラッパ吹きのような外れた音の演奏に文句一つなさそうでした。一人一人、表情は違いますが、どこかそれでいて、通いあって調和のとれた一枚の絵のようです。
「心の音は聞こえるはずが無くたって響くものです。」
白銀の鳥は誇らしげに言ったのです。しかしまだ少し団長のプロの音楽家としての矜持が邪魔をしているようでした。
そうこうしているうちなんだか眠くなって、椅子に腰掛けたのは、夜も遅い時間だったからでしょうか。そして気がつかぬまま、うとうとして、そのまま眠ってしまった団長が気がついた時、月夜の光が差し込む部屋には、あの白銀の鳥も誰もおらず、床にケースに入った例のトランペットがあるだけです。
取り残されたかっこうの団長は、なんだか少し演奏したりない気がして、ケースからトランペットを取り出して一人静かにメロディーを奏でていきます。それはごく普通のありふれた音でした。どうした事でしょう。いつもなら平気なはずが、何故だか一人きりの演奏が寂しくなって、手を止めて、窓から月夜を眺めます。やっぱり風が優しく頬をかすめていきました。今にもあの白銀の鳥が窓辺にやって来そうで、ただ夜空を見つめていたのです。聞こえるはずもないさっきのあの演奏の音が、不思議と団長の耳に届いた気がしました。
翌朝、団長は朝も早くから、トランペットを手に、大臣の執務室を訪れていました。
「このトランペットはお返しします。やっぱり私たちには必要ありませんので。」
団長はたった一言だけそう述べましたが、大臣は何も言わず、軽く笑みを返しただけでした。
そんなこんなで例年より色々な事があったコンクールは、今年もやはり観客たちに笑われたのでした。あの年老いたラッパ吹きは、本番も盛大に音を外していきました。国民の怒りと失望はいつもの様に団長に向かいます。それでも団長は頑張った団員たちを心からの笑顔で迎えいれ、誇らしく思えたのでした。
そんな様子を王様と大臣と例の楽器のコレクターは、特等席ではない会場の隅っこで多くの観客たちに紛れながら眺めていたのです。笑いものになっている楽団員たちを見る三人の視線は、慈愛に満ちたものに見えたのでした。
コンクールが終わったその夜、誰もが寝静まった真夜中に、城の謁見の間に王様と大臣と例のコレクター、あの年老いたラッパ吹きがいました。とても小さなケースに入ったそれぞれの楽器が置かれています。何も言わず、ただお互いの目を見つめあった四人は人知れず、小さな真夜中の演奏会を始めました。その姿はあの白銀の鳥と、薄い緑色の鳥、コバルトブルーの鳥、そして白いくちばしで少し大きな真っ黒の鳥でした。さも楽しげな、そのつたない演奏は目に見えぬたくさんのものを乗せて、どこまでも響き渡って行くのでした。