こんにちは、皆さん。
勝海舟の生涯から自分軸を持ち他人に影響されない生き方の大切さをお伝えする歴史大好き社労士の山路 貞善です。
いつもお読みいただきありがとうございます。
【 慶喜登場 】
前回、大坂城内で評議が開かれ、在阪する幹部により朝廷の許しを得ずに幕府だけの判断で兵庫開港を行う幕議決定があったことをお伝えしました。
慶応元年(1865年)9月25日のことです。
翌26日早朝、家茂からの下阪命令により前夜馬で京を発った一橋慶喜が大坂城に着きます。幕議に参加するためです。
慶喜が加わり、幕議が26日・27日と連日開かれました。
前日まで京都にいたため幕議決定のことを知らない慶喜は驚き、怒りあらわにし勅許なしの開港には断固として反対を唱えました。
「いかに切迫した申立てとはいえ、朝廷の許しもなく」開港すれば朝廷が大いに反発することは火を見るよりも明らか。どのような騒ぎになるか計り知れない。
京では、幕府により領内の港で外国との貿易が許されていない諸藩が幕府に対抗するため開港反対を朝廷に訴えているのだ。
また外交問題を諸侯会議の場で決するため会議開催を朝廷へ働きかけている藩(薩摩)もある。
そんな動きがある中で、今幕府が専断して開港すると宣言すれば、これまで容保らと共に築いてきた朝廷と幕府(一会桑)との信頼関係は完全に壊れてしまう。
慶喜が最も恐れたのはこのことでした。天皇の心が幕府から離れれば幕府はもたないという危機感が慶喜の頭にあったからでしょう。
( 慶応2年頃の徳川慶喜 )
しかしながら慶喜の主張にも阿部正外と松前崇広の両老中は頑として自説を譲ろうとはしません。すでに前日の評議で決定したことで、パークスら四カ国代表は幕府の速やかな返答を求めており、もはや勅許を得るための時間は残されていないと強硬に主張しました。
さらに返答を一日延期することも難儀故、これ以上の引き延ばしは戦争につながると一歩も引きません。
目の前で繰り広げられる慶喜と阿部・松前両老中との激しい論争に将軍家茂は、どのようにしていいかわからなくなり、とうとう泣き出す始末。「頻りに御落涙、何(どう)とも致し呉れ候様仰せ出され」という有様となります。
家茂は、非常に多難な時代に将軍職を務めなければならなかった悲運の将軍です。人柄は素直で、そのため多くの幕臣から慕われ勝も「なかなか聡明なお方」と評するお気に入りの将軍でした。ですが未曽有の混乱の時代のリーダーとして采配を振るうだけの器量と政治的資質にはどうやら欠けていたようです。
【 思いもかけない展開 】
こうして双方の意見が対立したまま時間だけが過ぎ、完全な膠着状態に陥りました。
ところがここで思いがけないことが起こります。
27日早朝、条約勅許を得るために10日間の猶予を与えることに四カ国代表が同意したという予想外の報告が若年寄の立花種恭(たねゆき)よりもたらされたのです。
先に阿部は四カ国との会談を26日まで延期の提案を行いましたが、その使者として遣わされたのが立花でした。
立花は、慶喜が大阪に戻った日の前日(25日)に兵庫に向かい、26日にパークスらと会談し、重要なことをいくつか伝えています。
立花は条約勅許を得られるかどうかは今や幕府の存続に関わっており、もしそれが獲得できなければ将軍は諸大名と同じ立場となってしまい、これまでの地位を失うであろうと語りました。
これを聞いたパークスは、勅許問題が幕府の存続にまで今や直結しているとの認識があるなら、この度は幕府も本気で勅許獲得に向け、力を尽くすだろうと期待を寄せたようです。
【 朝廷、老中罷免を命ず 】
回答延期の猶予を得たことにより阿部・松前両老中の主張は根底から覆り、両者は苦しい立場に追い込まれました。楽観が許されぬとはいえ10日もあれば朝廷に対し現状の危機と差し迫る脅威を訴え、説得し勅許が得られる可能性があります。
結果的に見通しを読み誤った老中二人は責任を感じ、慶喜に謝罪した上で、勅許が賜れるよう慶喜に尽力してもらいたい、代わりに自分たちは謹慎すると涙を流しながら懇願しました。両者の申し出を聞き入れた慶喜は家茂に対し、「速やかにご上洛され、条約勅許を請われますよう。某(それがし)は先に京に戻ります」と言い残して大坂城を後にしました。
ところが慶喜が京に戻ってからも将軍は一向にやって来る気配がありません。阿部・松前の両老中も謹慎することなく、これまでと変わりなく御用部屋に出仕しているとの報が入ります。
その頃、大坂城では将軍の上洛を反対する声が高まっていました。
京には上洛せず書面で勅許を奏請し、東帰した方が良いという声が出始め、慶喜の言に従うのを嫌う空気が城内を支配していました。
弱った慶喜は、事態の打開を図るため29日の朝議で大坂城での幕府の評議について説明し、阿部・松前の両名を非難しました。
朝廷は、幕府が単独で兵庫開港をしようとしたことに激しく反発し、叡慮(天皇の意思)により「豊後守(阿部正外)、伊豆守(松前崇広)の官位を召し上げ、国許に謹慎せよ」と幕府に命じました。
【 将軍の辞任 】
10月1日、老中罷免の命が大坂城に届くと城内は大騒ぎになりました。幕府の人事に朝廷が口を出すなどあり得ないことだからです。
これまでから朝廷に反感を持つ幕府幹部の不満の声は一気に大きくなり、城内では将軍職を退任すべきとの強硬論が大勢を占めるようになりました。
同じ日、家茂は将軍職を辞し、その後任に慶喜を推すとの辞表を認め、朝廷に差し出すため前尾張藩主の徳川玄同を京に遣わしています。
翌2日には将軍東帰が発表されました。
3日大坂を発った家茂は、東帰するのになぜか海路を選ばず日数がかかる陸路を選んでいます。翌4日伏見に到着。
伏見では将軍辞職を聞きつけた慶喜が容保と共に家茂の到着を待ち受けていました。
ここから先は、大河ドラマ「青天を衝け」第19回「篤大夫、勘定組頭へ」をご覧になった方はよくご承知のはず。
慶喜は、家茂に将軍職辞職を思いとどまるよう説得し、勅許を自身が朝廷から取り付けることを約束します。この場面は、将軍家茂と禁裏守衛総督を務める慶喜の立場の違いを浮き上がらせると共に、双方の想いが見る者の胸に伝わってくるなかなかの名場面でした。
その後、家茂は慶喜の進言を受け入れ、二条城に入ります。家茂の真意はわかりませんが、将軍職辞職の表明には激高する家臣たちを宥める意味も含まれていたのかもしれません。少なくとも本心から将軍を辞し、朝廷と事を構えようとする意思があったとは思えません。
さて最後に、今回も「青天を衝け」第19回から第152話と関連するいくつかのシーンを振り返ってみましょう(一部割愛しています)。
1)大坂城での家茂と幕閣首脳との評議の場 条約勅許について
幕閣:(家茂に)「パークスは勅許が取れねば公儀を無視して直に朝廷と話をすると申しております」
家茂:「しかし今さら天子様が勅許などなさるはずがない」
老中:「……」
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栗本:「僭越ながら、真に勅許など入用でしょうか。日の本を守ってきたのは公儀でございます。国の差配は
公儀がするもの」
松前:「その通り。天子様も朝廷も世のことなどまったくわかっておりませぬ」
阿部:「さよう、こうなれば上様、公儀の権威にかけて勅許などなくとも兵庫の港を開くべきでございます」
(「そのとおりじゃ」の声)
(慶喜が評議の場に登場)
慶喜:「たわけたことを申されぬな。公儀の専断による条約の勅許など不可に決まっております。このような大きな
事柄は朝廷の勅許があってこそ収まる。その前提が無視されれば国の根源が崩れまする」
栗本:(独り言風にフランス語で)「京の犬め!」
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2)老中二人の罷免命令が届き、沸き立つ大坂城内
思いもよらぬ朝廷の命令に驚く将軍と憤懣やるかたない幕閣たち
家茂:「罷免!?」(朝廷の幕府人事への露骨な介入に言葉を失う)
松前:「これも一橋の陰謀。京都組にこのような仕打ちを」
憤りをあらわす一同
「かくなる上は、速やかに征夷大将軍の退任を辞してはいかがでしょうか。もし上様がお辞めになるなら、
朝廷などどうせ何もできますまい。京だけで日ノ本を廻せるならやってみたらいいのだ」
(栗本の大胆な発言を封じる声が多数あがり、場は騒然となる)
家茂:「いや、あるいは一橋殿ならできるのかもしれぬ。…… もうよい。私はこれより将軍職を一橋慶喜殿に譲り、
江戸に戻る」
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3)将軍職辞職の報を耳にし、伏見の家茂の許へ血相を変えて駆け込む慶喜
慶喜:(将軍の前で平伏し)「上様、上様、なぜこのようなことを」
家茂:「知ってのとおり、私は攘夷を果たすことも勅許を得ることもができぬ。……あなたならば計らうこともできま
しょう」
慶喜:「お待ちくだされ。勅許は私が命に代えて私がいただいてまいります。それゆえどうか将軍職辞職は
思い止まりください。今、旗本八万騎の臣下を動かしておられるのは上様でございます。上様あってこそ
臣下は懸命に励むのです。私が将軍になったところで誰もついては来ぬ。国が滅びましょう。
(面を上げ家茂に向かい)将軍はあなた様でなくてはならないのです」
家茂:(こみあげる思いを胸に秘め)「一橋殿…」
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さて本日はここまでとしましょう。
大河ドラマでご覧いただいたシーンの背景にはこうした描き切れない事情があったことがおわかりいただければ幸いです。その分、随分長い話になってしまいましたが…(泣)、最後までお読みいただきありがとうございました。
次回は慶喜が朝廷での御前会議で大奮闘し条約勅許を勝ち取るまでの経過をお話します。
【参考文献】
・「勝海舟」 松浦 玲 中公新書
・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房
・「勝海舟」 石井 孝 吉川弘文館
・「徳川慶喜」 松浦 玲 中公新書
・「徳川慶喜」 家近 良樹 吉川弘文館
・「徳川の幕末 人材と政局」 松浦 玲 筑摩書房
・「明治維新の舞台裏」 石井 孝 岩波新書
・「遠い崖-アーネスト・サトウ日記抄3」 萩原 延壽 朝日文庫
・「徳川慶喜公伝3」 渋沢栄一 東洋文庫 平凡社
・「昔夢会筆記」 渋沢栄一編 東洋文庫 平凡社 電子書籍
・「勝海舟全集19 開国起源Ⅴ」 講談社
写真・画像: ウィキペディアより