こんにちは、皆さん。
勝海舟の生涯から自分軸を持ち他人に影響されない生き方の大切さをお伝えする歴史大好き社労士の山路 貞善です。
いつもお読みいただきありがとうございます。
さて第151話から前回の第153話までの3回に分けて、「日本がいつ、どんな風に開国したか」というテーマでお届けしました。
最近、勝海舟がちっとも登場しないじゃないかと思われているかもしれません。確かにその通り、 もう少しだけお待ちください(笑)
【 その後の幕府の動き 】
さて前回の話からわかるように一橋慶喜の奮戦により幕府は天皇の勅許を得ることができ、幕末史上、最大の危機を回避することに成功したわけですが、その後はどうなったのでしょうか。今回はその後日談を取り上げます。
英公使パークスが幕府に突き付けた要求は、3つありました。すなわち 1)条約の勅許の獲得、2)兵庫開港の実現、3)輸入税率の一律5%の引き下げの三条件です。
一方、孝明天皇が認めたのは、1)条約の許容、2)条約の不都合な箇所は諸藩と評議を行い改訂することを求める、3)兵庫開港は差し止めの三点で、この3つが御沙汰書で幕府に示されました。
ご注意いただきたいのは、朝廷は条約の勅許は認めるけれども兵庫開港に関しては差し止め扱いをしていることです。つまりこの段階では兵庫港の開港を天皇は許していないのです。そのため後に将軍職に就いた慶喜がこの問題の対処に苦しむことになるのですが、そのお話は先の機会に譲ることにしましょう。
では最後通牒を突き付けた四カ国に対し幕府はどのような回答を示したのでしょうか。
回答期限となる10月7日(慶応元年)午後、老中本庄宗秀らが英艦プリンセス・ロイヤル号のパークスを訪問しました。条約勅許が得られたことを口頭で報告するためです。
四カ国が要求した書面による回答がパークスらの手元に届けられたのは、、同日の真夜中でした。期限間際に何とか間に合わせた格好です。老中三名による連署と花押のある書面には、以下の内容が記されています。
条約の勅許が得られたこと。次に兵庫開港については、ロンドン覚書で定められた期限に行うが、それより早い時期に開港する考えであること。下関賠償金の三回目の支払については約定通り12月に支払うこと。
第三に、税率改定については同意し、江戸で留守を預かる老中水野忠精(ただきよ)らに交渉を始めるよう申し遣(つか)わしたこと(税率の改定は技術的な問題を伴うため幕府扱いとされた)。
幕府の回答書には、今すぐ兵庫開港を行うことはできないが、覚書の期限(慶応三年12月)までには行うと書かれてあります。
一方、御沙汰書には「兵庫は止められ候事」の文言がありますから、朝廷は開港しないことを明らかにしています。外国人嫌いの朝廷は、京都に近い兵庫の開港そのものを禁止する考えであったのです。
そのため幕府はあえてこの文言をパークスに示していません。
この辺りの経緯について慶喜は、後年このように説明しています。
「この上、兵庫開港を請うことは至難なり。首尾よく仕遂ぐべしとも思われず、さればその差止めの事は曖昧に附し置」くことにした、と。
条約勅許の許可さえあれば後のことは何とでもなる、慶喜はそう判断したのでしょう。
天皇に条約勅許を願い、さらに兵庫開港の許しまで同時に求めるのはさすがに困難というもの。だが兵庫開港差止めの文言を目にしたらパークスは恐らく承知しないだろう。そのことで詰(なじ)られた場合には、勅許が下りたからには開港は行う。すぐに開港を行わないのは期限が到来していないからと弁解することで、ひとまずこの局面の収拾を図ることに決定したからだ、としています。
【 四カ国側の幕府回答への評価 】
さて他方の当事者である四カ国は、幕府側の回答をどのように評価したのでしょうか。
結論から言うと、回答最終日まで待たされたものの英公使パークスは今回の決定に満足していました。
パークスは、「条約の勅許は、兵庫の即時開港よりもはるかに価値がある」と見ていました。「条約(ロンドン覚書)があり、そして今回、明確な約束をした以上、幕府は兵庫開港をいまから二年以上、延期することはできない」と考えていたのです。
また老中本荘宗秀が先に口頭で報告した際に、今外国人が兵庫で活動しようにも幕府はその安全を保障しかねると説明したため即時開港の実現は現実的ではないと判断していました。
一方、仏公使ロッシュは、将軍職辞任という危機を克服し、勅許を獲得した幕府側の努力を高く評価しました。これにより幕府が権威を回復し、幕府主導の政治が国内で行われることを期待したのです。
さて四カ国が軍艦で兵庫沖に遠征し、軍事力行使をちらつかせた交渉で獲得した成果は何だったのでしょうか。それは積年の課題であった条約の勅許だけでなく、兵庫開港を二年内に行わせる確約を取り付けたことでした。さらに賠償金支払いを請求する権利に関して一部も放棄せずに済みました(開港時期が1年または1年半、早まれば賠償金を三分の二に減額するのは認められる)。パークスにとって今回これだけの成果が得られれば首尾よく使命を果たしたと言えるものであったのです。
パークスは本国への報告の中で緊迫した交渉以外のことにも触れ、地元住民との交流があったことも伝えています。
幕府の危機が迫る一方で民衆レベルでは、心ほのぼのとするエピソードもありました。
艦隊が三週間碇泊している間、士官らがヒマを見つけて遠足に出かけようと上陸することがあり、その行く先々で民衆からは好意的な扱いを受けました。その好意への返礼として艦を自由に訪ねることを認めたのです。
「(地元の)多くの日本人が家族と一緒に来艦し、旗艦プリンセス・ロイヤル号の大きさと装備に目をみはり、好奇心を満足させた」と記しています。少し意外な氣もしますが、当時の日本人が外国に興味を抱き、積極的に外国人とつきあうとしていたことがうかがわれるエピソードです。
【事件後の影響について】
遠征目的を達成した四カ国艦隊の艦影が兵庫沖から消えたのは、10月8日から9日にかけてでした。
幕末の日本を揺るがした四カ国艦隊による条約勅許・兵庫開港を求めた事件は、こうして幕が下りました。ですがこの事件はその後の歴史に大きな影響を与えました。
まず薩摩の幕府への反発心はこれまで以上に強くなったことです。
朝議で慶喜に敗れた大久保一蔵(利通)は、国許の藩士への手紙でこの度の幕府による開港を「因循の開港」と批判しました。
幕府の主導で開港が進めば貿易上の利益はこれからも幕府が独占し、参加が許されない諸藩はその恩恵に与れないことになります。しかも西洋の最新の軍事技術の導入や兵器輸入についても幕府が諸藩より一歩先んじるため、そのことへの警戒感が高まりました。
こうして幕府への反発を一層強めた薩摩は、次第に長州藩との連携を考えるようになっていきます。
(「青天を衝け」で慶喜を演じる草彅剛さん)
また慶喜が恫喝という強引な手法を用いたとはいえ、安政条約を決して認めようとせず頑なに拒否し続けた天皇から許可を取り付けたのです。誰もなし得なかったことだけに一橋慶喜の政治手腕と交渉能力には一目を置かざるを得ません。同時に対立する勢力からすれば慶喜という存在に対し計り知れない恐ろしさを抱かせました。
この二年後、将軍となっていた慶喜は大政奉還を行うことになりますが、後の新政府は旧徳川出身の慶喜の政治への参加を認めませんでした。それは、この時の慶喜の記憶が薩長の要人たちの脳裏に深く刻み込まれていたからだと考えられるのです。
さて本日はここまでといたしましょう。今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。
【参考文献】
・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房
・「徳川慶喜」 松浦 玲 中公新書
・「徳川慶喜」 家近 良樹 吉川弘文館
・「徳川の幕末 人材と政局」 松浦 玲 筑摩書房
・「明治維新の舞台裏」 石井 孝 岩波新書
・「遠い崖-アーネスト・サトウ日記抄3」 萩原 延壽 朝日文庫
・「徳川慶喜公伝3」 渋沢栄一 東洋文庫 平凡社
・「勝海舟全集19 開国起源Ⅴ」 講談社
写真・画像: NHK大河ドラマ「青天を衝け」より