こんにちは、皆さん。
勝海舟の生涯から自分軸を持ち他人に影響されない生き方の大切さをお伝えする歴史大好き社労士の山路 貞善です。
いつもお読みいただきありがとうございます。
前回の続きです。
二つの政治的敗北により小松・西郷・大久保らの薩藩の指導者たちは大きな決断を迫られました。明らかになったことは、これまで推進してきた朝廷の権威を利用し藩外交による挙国一致の政治体制の確立という藩の方針を貫くことはもはや不可能だということです。言い換えると薩摩が志向する雄藩連合政権による国内統一構想に幕府とりわけ一橋慶喜を含めての構想はあり得ないと決断したのです。
もともと幕府には薩摩他の諸藩と対等な立場での政権をつくろうという考えはありません。そのことが明らかになった以上、薩摩が採るべき道は幕府と戦うことしかありません。こうして薩摩藩は幕府との対決姿勢を強めていきます。
この頃、大久保は会津藩から薩摩と会津の協力関係の復活について提案を受けました。しかし大久保はその申し入れをきっぱりと断っています。今や長州藩は幕府との武力衝突を目前に控えており、反幕府勢力の最右翼といっていい存在です。薩摩が提携すべき藩は長州藩をおいて他になかったからです。両藩が手を結ぶには十分過ぎるほどに機は熟していました。
とはいえ両藩の指導者たちが直ちに提携を進めようにもそれを許さない多くの障害がありました。両藩は文久年間から敵対関係にあり、険悪そのものの間柄。薩摩藩には長州藩を京都から追い落とした過去があり、禁門の変では互いに敵味方となって戦火を交えました。
長州では今も「薩賊会奸」と呼び、多くの者が薩摩と会津に対して激しい憎しみを抱いていました。このように長州人には薩摩を快く思わない者たちが多くいたため薩摩と手を結ぶことに反対の声が上がることは必至でした。両藩の提携を進めようとしても当事者たちの力だけではどうにもならない大きな壁が立ちはだかっていました。
【 薩長両藩を結び付けようとする者たち 】
当時においても薩摩と長州という二大雄藩の間で協力関係が成立すれば時代は変わるという考えははありました。ですが最大の問題は誰が、どうやってその関係づくりのお膳立てをするかでした。この難しい役目を引き受けたのが土佐藩士たちでした。
「薩長同盟」と言えば皆さんは坂本龍馬の名を思い起こされることでしょう。龍馬は確かにこの仕事に関わっている一人には違いありませんが、龍馬よりも早い時期から薩長両藩を結び付けるための活動をしていた複数の土佐人がいました。龍馬も両藩提携のための仲介役の一人として役割を果たすことになります。
龍馬が薩長盟約(最近では薩長同盟という表現はあまり使われず、こう呼ばれることが多くなっています)の立役者として語られるのは、何と言っても龍馬自身がこの密約成立の歴史的場面に立ち会っていたからです。
ではその経緯を見ていくことにしましょう。
土佐藩を脱藩した龍馬は後ろ盾を持たない身でしたが、反面拘束されずに自由な立場で行動することができました。薩摩人とも行動を共にすることも多く、親しい間柄にありました。
勝の日記で龍馬の生存が確認できるのは、元治元年(1864年)8月23日の記述(第144話)です。薩摩の吉井幸輔と京にいた龍馬が神戸の海軍塾に戻り、師に語った報告を勝は書き留めています。ただこの時が元気に活躍する龍馬の姿を勝が目にした最後の機会であったかどうかはわかりません。
翌元治二年(1865年)4月(同月7日、慶応に改元)、吉井からの書簡(慶応元年4月22日付)が江戸の勝の許に届きます。「坂元(ママ)も無事同居仕り候」と龍馬が京都で吉井と同居していると知らせてきました。
龍馬が海軍塾に戻ってから翌年4月に京に姿を現わすまでの間、どこでどのような活動をしていたのかは定かではありません。その間の行動を解き明かす手がかりとなるのは、小松帯刀からの大久保一蔵宛書簡(元治元年11月26日付)です。これによるとこの時期、龍馬は自身が自由に活動できる船を調達するため江戸に下ったものの首尾よく運ばず翌年春、京に上り吉井の居宅に転がり込んだようです。
この吉井の許に頻繁に出入りしていたのが、土佐人土方久元(ひじかた ひさもと)です。土方は龍馬と同じ土佐勤王党の一員で、藩命により京都に出て長州藩の志士たちと交わりを持ちます。文久三年8月18日政変で長州藩が京都から一掃されると「七卿落ち」した三条実美らと行動し、長州人たちと苦楽を共にしています。その後、三条らが九州大宰府に移された際も従っています。
またもう一人の同志として土佐勤王党出身で脱藩後、長州藩に身を寄せ、禁門の変を一緒に戦った中岡慎太郎がいました。長州の尊攘派と共に歩んだ経験から新たな時代を切り開くためには薩長両藩の提携こそが必要という考えの持ち主でした。
(左:土方久元(明治32年)、右:中岡慎太郎(慶応2年))
土佐藩では土佐勤王党に対する弾圧により捕らえられた藩士は次々と投獄されましたが、難を逃れた多くの藩士は脱藩しました。中岡も長州藩に逃れた一人でした。
その後、第一次長州征伐が起き、長州藩は幕府に降伏。その終戦処理の一つが三条ら五卿を長州領から立ち退かせることでした。これには長州側が強く反発しました。この難しい交渉に当たったのが西郷吉之助と吉井幸輔です(第147話)。
これをきっかけとして土方と中岡は西郷と吉井と出会い、薩摩藩とのつながりが生まれました。
三条の信頼が厚かった土方は命を受け、京の情勢を探るため同藩の中岡と一緒に上京します。この時、彼らが京での活動のために頼ったのが薩摩で同藩邸に身を寄せることにしたのです。
上京した二人は、小松・西郷・大久保たちと議論を重ねました。両名が語ったのは、長州藩と共に厳しい戦いの中、つぶさに見てきた長州側の内情であり、また藩領の外は敵対勢力ばかりというという究極の状況であったでしょう。こうした経験から両者は薩長が和解して手を結ばない限り、幕府に対抗できないことを誰よりも深く理解していました。
【 薩長提携に動く龍馬 】
さて吉井が勝に龍馬の消息の知らせた日(慶応元年4月22日)、小松と西郷は京から大阪に向けて出立しました。薩摩藩の胡蝶丸に乗船して鹿児島に戻るためです。大坂出港は同月25日。この船には龍馬も乗っていました。5月1日、鹿児島着。龍馬はこの日初めて薩摩の地を踏みました。その後、二週間ほど滞在し、16日には大宰府に向かっています。23日に大宰府に着くと翌24日(と27日に)、三条実美らの公卿に面会しています。五卿の一人東久世通禧(みちとみ)は龍馬に会った時の印象を「偉人なり奇説家なり」と記しています。龍馬が彼らに何か独特で強い印象を与えたことは確かなようです。
(慶応2,3年頃の坂本龍馬)
龍馬はこの地で出会った長州藩士小田村伊之助(※)(2015年大河ドラマ「花燃ゆ」で大沢たかおさんが伊之助役を演じています)を通じて、提携を持ち掛けるため木戸孝允(この頃、桂小五郎から改名)に下関で会う手筈を整えてもらうことになりました。閏5月1日、龍馬は下関に渡り、そこで京都から戻って来た土方久元と再会します(同月5日)。薩長和解のためであったのですが、その折龍馬は土方から耳よりの情報を聞かされます。
同志中岡が西郷に薩長提携を訴えるため鹿児島に向かったというのです。中岡の説得に応じた西郷は下関に立ち寄ることを約束し15日、鹿児島を出港しました。すでに木戸は下関に着き、あとは西郷と中岡の到着を待つばかりとなりました。ですが21日、龍馬と木戸の目の前に姿を現わしたのは中岡慎太郎ただ一人。西郷の姿はどこにも見当たりません。待ちぼうけを食わされた木戸は激怒しました。
さて本日はここまでといたしましょう。今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。
【参考文献】
・「勝海舟」 松浦 玲 中公新書
・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房
・「勝海舟」 石井 孝 吉川弘文館
・「坂本龍馬」 池田 敬正 中公新書
・「坂本龍馬」 松浦 玲 岩波新書
・「勝海舟と西郷隆盛」 松浦 玲 岩波新書
・「勝海舟全集1 幕末日記」 講談社
・「大久保利通」 毛利 敏彦 中公新書
・「徳川の幕末 人材と政局」 松浦 玲 筑摩書房
写真・画像: ウィキペディアより
※ 後に藩主の命で楫取素彦(かとり もとひこ)と改名