「新世界より」第二十五話の感想です。
最終話です。
※ネタバレします。
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☆第二十五話「新世界より」の感想です。
最早、逃げる場もない。
追い詰められた早季と覚、そして奇狼丸。
絶体絶命かと思われたその時、
早季が瞬の声を聞き、何かに気付く。
早季がずっと抱いていた疑問。
「あれは本当に悪鬼なのか?」
そして、早季の中の瞬の言葉。
「あれは悪鬼ではない」
その意味がやっと分かりました。
悪鬼に関して何かに気付いた早季が取った策。
それは悪鬼に奇狼丸を殺させることでした。
悪鬼は自分を人間だと思ってはいない。
では、何だと思っているのか。
それは「バケネズミ」という答えしかありえません。
ここに悪鬼が悪鬼ではない理由がありました。
本物の悪鬼ならば愧死機構が働かない。
つまり、どんなに同胞を殺しても
それで自分が傷つくことはない。
しかし、今、目の前にいる「悪鬼」と呼ばれる存在は、
本物の悪鬼ではありません。
ならば、「同胞」を、「バケネズミ」を殺してしまえば、
愧死機構が働いて死に至るはず。
そう考えた早季は、だから奇狼丸に犠牲を
頼んだわけです。
そして、奇狼丸はその提案を彼の同胞のため、
彼の母のために受けました。
その結果、
目論み通り、悪鬼は愧死機構によって死亡。
結局、人間は自らが作った愧死機構という鎖によって
全滅の危機に陥り、そして、自らが作った同じ鎖で
危機を免れたわけです。
なんというか・・・。
虚無感・・・。
しかし、まだ虚しくなるのは早かったらしく、
この後も嫌になるような状況や真実が
次々と眼前に突きつけられました。
「悪鬼」という最大で必然の切り札を失ったバケネズミ。
この状態で人間に刃向うことなど出来るはずもなく、
争いは人間側の勝利に終わり、
主犯のスクィーラは捕らえられました。
ここからの、スクィーラに対する人間の態度。
これがまた何とも言えない、
虚しいような、忌々しいような、哀れなような、
複雑な感情を呼び起こしました。
丸裸で牢に放り込まれたスクィーラ。
その彼に早季と覚が話しかけます。
「何故、あんなことをしたのか」と。
スクィーラは答えます。
「我々は奴隷ではない」と。
覚が憤慨します。
「お前達には完全な自治を認めてきた」と。
スクィーラは答えます。
「御主人様のご機嫌が麗しい時にはね」と。
戦闘中に尋問したバケネズミの一兵士の言葉。
追い詰められた時に聞いた奇狼丸の言葉。
それから、このスクィーラの言葉。
もう何度同じ言葉を聞いたのでしょう。
なのに、ここに至っても早季達は
「何故、バケネズミが反乱したのか」
を理解出来ていない。
この虚しさ。
どんなにバケネズミが自分達の権利を叫んでも、
人間のバケネズミに対する非道を非難しても、
バケネズミと人間は同等の存在だと訴えても、
刃を向けて血を流して分からせようとまでしても、
何も、その一片すらも、届かない。
この絶望的な徒労感。
ああ、無情。
そして、裁判にかけられるスクィーラ。
「野狐丸」と呼ばれ「スクィーラだ」と反論する
スクィーラに投げられる侮蔑の言葉。
「獣でないなら何なのだ」という問いに
沈黙のあと「私達は人間だ」と叫んだ
スクィーラにぶつけられる無数の嘲笑。
それから一方的に言い渡される刑。
ただ殺すだけでは甘すぎると
呪力で破壊と再生を繰り返す永遠の地獄。
最後の最後まで叫び続けた言葉は届かず、
一方的にまさに「御主人様に逆らった奴隷」として
権利も何もない刑に処され続けるスクィーラ。
ああ・・・。
なんか。
なんかもう、
私はスクィーラが不憫でならない!
何をどんなにどんな風にして
叫んでも訴えても罵っても喚いても
ただの一つも伝わらないなんて。
この脱力感。虚無感。
例え敗北したとしても、残酷な刑に処されたとしても、
少しでも分かってもらえれば、まだ小さな小さな
救いはあったと思うのに、全く何も伝わらないなんて。
ああ、無情。
もう溜息しか出ない。
でも、まだ先があるんだな、これが。
全てが終わって時間が経った後、
早季が妙な文献を見つけます。
古代のバケネズミの学名に関する論争。
その不可解な記述。
そして、覚が口を開きます。
バケネズミの遺伝子を調査したと。
そこから導き出された事実。
それは、「バケネズミ」は、かつて「人間」と
呼ばれていた存在だったということでした。
遥か昔にいた呪力のない人間。
それが「バケネズミ」の祖。
昔、呪力のある人間達は、平和で愛に満ちた社会を
作るため、愧死機構という鎖で自分達を縛った。
同胞に危害を加えないため。
同胞間で争いを起こさないため。
人間は人間を殺せない、という鎖で縛った。
けれど、これでは呪力のない人間達に滅ぼされてしまう。
そこで、彼らは呪力のない人間達を
「同胞」ではない存在に変えました。
「バケネズミ」という存在に。
これで彼らは呪力のない「同胞でない」存在を
殺せるようになり、社会は平和になりました・・・。
スクィーラの「私達は人間だ」という言葉は
全く正しかったわけです。
そして、平和な愛の社会と言いつつも、
人間達の社会は実際には同胞を虐げ続け、
殺し続けた残虐な社会だったというわけです。
ああ、何ともいいようがない。
この胸の寒々しさ。
けれど、ただ一つ、最後に救いがありました。
早季がスクィーラを殺したことです。
破壊と再生を繰り返し続ける刑に処されたスクィーラ。
彼は恐らく、ただの肉塊になっても生き続け、
苦しみ続け、その姿を人間とバケネズミの戦争を
伝える博物館のような場所に晒されていたのでしょう。
そこに早季が行って、彼を殺害し、楽にした。
その時に語りかける早季の口調が優しくて、
「まったく、信用出来ないんだから」という言葉が
親愛に満ちていて、何故か胸が熱くなりました。
お互いに殺し殺され、
惨いことばかりだったけれど、
最後の最後に少しだけ通じ合えたような。
そんな気がして、泣きたいような気分になりました。
そののちに、早季は覚と結婚して子供を産みました。
普通に生きて、死んでいったようです。
「恐怖の対象から希望へ」
人間がそう変われるように望んでいた早季。
その望み通りになっていったのか、
バケネズミがどうなっているのか、
作品では語られませんでした。
でも、少しは変わっている。
そうであると思いたい。
そんな気がしました。
でも、本当のこというと変われる気がしない!
あんだけスクィーラが頑張っても聞く耳なんて
全くこれっぽっちもなかった連中が変われるかあ!
でも、大丈夫よ、スクィーラ!
そのうちこいつら勝手に自滅すると思うし!
そん時もきっと愧死機構が原因よ!
愉快ね!!
・・・という心の奥底の声はそっと封印するとして。
幾つもの虚しさと哀しさと絶望を感じさせつつ、
けれど奥底に希望も見いだせるような、
そんな複雑な気持ちを抱かせてくれたこの作品。
私は静かにとても好きだったと思います。
特に最終話はとても美しいと思いました。
観ていて良かったです。