需要を考える 7 | 芸能の世界とマネジメント

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芸能界、芸能人のために論じます。

需要を考えることをテーマにシリーズとして論じております。最初は需要が供給をよぶ現象を考察し、現在では供給が需要をよぶことの理論を作っていくことを試みております。モノがない時代には確かに需要をもとに供給を満たしていくことが可能となりますが、これほどまでにモノであふれた社会となるとそうれが困難となってきます。スマートフォンが最初日本にやってきたとき、私は真っ先に購入したのですが、その頃はまだガラケー全盛期でありまして、スマートフォンを使う私は相当、非常に馬鹿にされたのでありました。ところがいまやどうでしょう?スマートフォンを持たないことを想像することはできますか?

 

この事例のようにスマートフォンは需要が先にあったわけではなく、供給することにより新たな需要が出てきたことの典型例であります。携帯電話自体はそもそも世に存在していたわけでありまして、それ以上の機能を追加した携帯電話が必要か?となるのですが、スマートフォンは電話の機能よりもインターネットの機能を充実した結果、ノート型パソコンに対する脅威となったのでありました。改良を重ねるうちにPCの機能に次第に追いつくようになり、ノート型パソコンの存在はみるみるうちに存在感をなくしてきました。

 

しかしこれも時代ですね。ガラケーも負けてはおらず、通話機能に特化した携帯電話として存在感を高めており、私も通話に関してはガラケーを使用しており、携帯電話の差別化がはっきりとしてきております。これは供給が需要を呼ぶ時代の特徴であるのかもしれませんが、破壊的イノベーションが起こったとしても、破壊された市場が完全に姿を消すことはなく、むしろ旧市場の特徴が強化され、それが人々に愛されるという現象が起こっているのでは?と私は妄想しております。例えば本もそうですね。スマートフォンやタブレット時代において紙媒体の本を売っていくのは困難でしょう。なぜなら、インターネットを経由すると無料で文字を読むことができることが多いからです。紙媒体を無料で読むとなると、新聞の広告ですら新聞の料金を支払わなければ読むことができません。図書館へ行けば無料で読めますが、図書館まで行かなければなりません。そうなるとますます紙媒体の本はインターネット時代において淘汰されるように思われますが、しかし、紙媒体の本はコピペされる危険性が非常に低いため、著者の意見を世の中に反映させやすいという特徴を持っております。これゆえに、私はコピペされても問題ない文章はネットを通じ公開し、あくまでも私の主張を強めるときは紙媒体で公開するようにしております。

 

西洋の近代建築に負けず日本の木造建築がなぜこれほどまでに愛されているのかなどを考えるとき、破壊的イノベーションによる市場の破壊は実のところ破壊ではなく、市場の細分化であるような気がしてなりません。新旧の技術が組み合わさりイノベーションが発生します。それは新と旧、中国哲学で考えると陰と陽とが同じ場所に格納されている太極の状態であり、心理学的には未分化な意識となり、生物学的には細胞分裂が起こる前の段階であると考えられ、コンティンジェンシー理論からすると組織の分化と統合が発生する前段階と考えることができます。何事にも新しいこと、ないし新しい命が発生するとそこには分裂や分化が発生します。そして旧の場所から新しいものがスピンオフされ、新しいものは新しいものとして生きていきますが、その新しいものはやがて古いものとなり分裂が生じ、そこから新しいものがスピンオフするという細胞分裂の考え方を応用すると、破壊的イノベーションは新しい命であり、古いものがあるから破壊的イノベーションとして成り立つわけであり、破壊的イノベーションが発生したからといって旧技術をなくしてしまうと破壊的イノベーションは成り立たないとする仮説が成立します。これを私は「経営中庸理論」としておりますが、何事も中庸の徳を失うと、新と旧の両方のうまみを同時に失ってしまいます。

 

前稿の結論部分に販売員の個性化について少し触れましが、これはこの経営中庸理論につながります。換言すると販売員の個性化となるでしょうし、さらに適応範囲を広げると商品や製品の個性化となるでしょう。学校の教員に適用させると教職員の個性化となります。

 

次回以降、本件について深く論じていく予定です。ご高覧、ありがとうございました。