先日より実学道でのブログにおいてペルソナと自我とのバランスのとり方についてのキーワードが多く、しかしながら、学会的な見方からするとそのような考え方はどちらかというと間違いではないか、否、現段階では「間違い」という認識でいてほしいとの補足をしたためました。なぜこのような曖昧な表現になるかというと、ユング自身もそのことについて混同していることもあり、また、日本の研究者もそれに追随するように議論を展開したままであるのが現状で、本件をどのように見るかについては元型としてのペルソナを実例をもって吟味検討する必要があり、これについては私の「実学道」のブログにて、コンプレックスの話が終われば展開していくことを予告しておきます。しかし、「結論」を先んじて知りたいとする姿勢にも少しはお答えしようと思うこともあり、それをこの応用編のブログにて少しづつ展開してみようと思います。
まず、ペルソナは個人的無意識よりももっと深い層に存在されるとされる元型の一つで、実はこの元型は元型同士で影響しあうこともあり、これが事実であるとすれば無意識内で無意識同士が作用し、それがさらに意識、とりわけ「自我」に作用し、自我がうまくその無意識を取り込んでいくことにより個性化、ないし自己実現に向かうというのが話の筋です。その元型の中で、元型同士が作用しあい、その結果としてそれが外界に対して大きく作用するとき、それをペルソナとし、内界に向かう場合はアニマ・アニムスとするとされています。よって、ペルソナは深層心理学会では「仮面」と表現され、それがさらに拡大し、私は経営学という見地から表現するにさしあたり、「見た目」や「見てくれ」と表現するに至っております。その経緯のより詳しい内容については「実学道」のブログへ譲として、まずは見た目という意味に変化を遂げた「ペルソナ」について、ペルソナと創造的活動、いわゆる、無意識界との再接触について論じてみたいと思います。
ペルソナを見た目と定義した場合、そこにすでに個性化された一つの個が存在するといえます。私がかつてこれに関してマトリクスを使用し、普遍性の高いペルソナを作り上げることを提唱しておりますが、実はこの段階において一つの個性化が実現されており、その意味において自己実現を果たしていることになります。しかし、ここで気になるのは、人のまねをして「自己実現」といえるのか?ということです。確かにブレイクするという目標は達成できたとしても、何か腑に落ちない感じがするはずです。そうです、それがいわゆる「コンプレックス」というものです。このコンプレックスをさらに追及していくと、そこには人のまねをし、人の「ペルソナ」をかぶっている自分が存在し、それではいけないという自分(自我)と、それでいいのだ!とする普遍的無意識とが共存し、自我がこの無意識からの呼びかけに負けてしまう場合、それはただの「パクリ」で終わるという悲しい結末となってしまうのです。いわゆる自我の崩壊です。
これでお分かりだと思いますが、自我と無意識との割合ですが、それはバランスのとれた状態であることが望ましいのですが、個性化の過程の初期段階においては強い自我を要求されます。しかしながら自我があまりに強いと無意識の創造性が活かされず、ここから考えると自我の力が5、無意識が5(5:5)くらいの比率で、それでうまく統合できれば8:2の方向へ向けていくというのが理想ではないかと思うものの、このように数字で表現することにおいて私は反対でありまして、実のところ、均衡点をどこにするかについては個人の状況により異なります。基本的に、自我の影響が弱ってくると無意識が作用するレベルが高くなるとされることから、5:5でも意識レベルは「高い」ないし、「強い」となり、うまく統合されることにより徐々に意識レベルを高めていくということが望ましく、その比率の配分は個人によって異なるのが当然であると考えております。
いかがでしょうか。皆様方が知りたかったことを一部分ですけどお応えすることができたと思っておりますが、これはまだ一部でしかないと私も理解できておりますので、次回へと話をつなげていきたいと思っております。ご高覧、ありがとうございました。