こんにちはキラキラ
大分日が長くなってきましたね。
思わず外に出たくなってしまう気候が続くと、散歩好きとしては嬉しいです!




さて、東京国立近代美術館で開催中の、ゴードン・マッタ=クラーク展へふらっと行って来てみました。正直名前も知らなかったくらいだけど、だからこそ興味の赴くままに、ふらっとnico

何も知らないからこそ、フラットに作品に向き合えた気がいたします。インスタレーションの映像が面白かったな。

何かぼーっと映像観ながら徒然考えてしまったので、整理するためにも文にしてみますねこ

家を切断したり、車をスクラップにしたり、そんなインスタレーションが印象的でした。
 
家は、人が住む為にある。
じゃあ人が住まなくなって、真っ二つにされて、家としての機能を果たさなくなったそれは一体何なんだ。
なんて不思議な疑問がひたすら頭を過った。今まで勿論、家を見て、これは何なのかなんて思ったことはない。
芸術?ガラクタ?
思うにそれは何でもない。
人間がつくったものだから、形になった時点で家という意味付けをされる。
でも切り込み入れられたり傾けられたりししてしまえば、もう人が住む家としては体を成さない。
だからといって別にただのガラクタなんて思わなくてもいい。
ある人にとっては芸術で、ある人にとっては家で、ある人にとってはガラクタで、ある人にとっては観光名所で、ある人にとっては可哀相で、ある人にとっては美しくて、ある人にとってはどうでもいいもので。それでいいんじゃないか。特に動物なんかにしてみれば別に家が傾いてようが大した問題じゃない気もする。
だから、時計塔をシャワーとして使ったって、ある意味自然なことにすら思えてくる。だってどんなに不自由な姿勢を強いられようが、使用者が時計塔をシャワーだと認識しててシャワーとして使えているなら、問題ないじゃないか。
万人がそんなことするわけもないから、彼の行為や作品に、誰もが共有できる名前はつけられないかもしれない。だけど、元々は世の中そんなもので溢れかえっていた筈で。今だって、気付かないだけで名前のないものがどこにでもあっておかしくない。それに気づこうとするのは面倒で怖いことかもしれないけど、決して悪ではない。
そんなことを考えていると、遠い星を見ている時と同じように、自分の存在がすごいちっぽけに感じられて、小さなことがどうでもよくなってくる。何かに意味を見出だすことは大事かもしれないけど、意味が見つからないからって、無理に見つけようとする必要もないのかもしれないのだから。

そんなことを、つらつらと。

ちょっと前まではコンテンポラリーアートや抽象画みたいなものに対して「何でも芸術って呼べば芸術になるのか」とあんまり理解できなかったけど、最近とても惹かれるまるちゃん風逆に芸術というものを自分の中だけで定義付けしちゃってたのでは。
小っちゃい頃は抽象画見て無限の想像を膨らませてたことを考えると、一周廻って頭が柔らかくなったんですかね。

ちなみにコンテンポラリーアートで好きなのはグレイソン・ペリー。是非ググってみて欲しいはるおはるおはるお

すんごいとりとめのない覚え書きですみません!!もし最後まで読んで下さった方がいたら、ありがとうございます!




葛堂里奈