■リーダーに不可欠の「責任倫理」
 普天間問題で日米関係に亀裂を生んだかと思えば、尖閣問題では中国の強硬な外交姿勢に位負けし、ロシア大統領が北方領土へ訪問すると、遺憾の意を表明するしか術をもち得なかった。これら一連の騒動では、日本国トップの外交手腕、とりわけ領土と主権意識の希薄さが露わになった。一九世紀ヴィクトリア時代のイギリスの首相パーマストンは、「英国には永久の敵もなければ永久の味方もない。永久の国益追求あるのみ」といった。一言でいえば、確とした歴史観と国家観を持つ指導者の不在といってよい。
 かつて西洋史学者で京都大学教授の野田宣雄氏は、ドイツの社会学者マックス・ヴェーバー(一八六四~一九二〇)に倣って、日本に求められる指導者像を〈なによりもまず、国民の前にみずからの原則とヴィジョンを大胆に示すことである。その上で、その原則に沿って展開した政策の結果に対して、毅然として責任を負うことである〉(『日本の論点96)と規定したことがある。
 マックス・ヴェーバーが自らの公開講演をまとめた『職業としての政治』で提起したのは、〈政治家の価値を決めるのは、心情や動機の善し悪しではなく、あくまで行動と政策の結果である。政治家たる者、結果に対して責任を負っており、心情や動機の良さをもって責任を免れることはできない〉という「心情倫理」と「責任倫理」の概念であった。
 第一次大戦後のドイツでは、国内が混乱し、インテリ層は社会主義革命に傾斜していた。ヴェーバーは政治の本質は権力であることを指摘したうえで、〈手段と目的、理想とその実現プロセスの間にある厳しい緊張関係に耐えられる者だけが政治への「天職」をもつ〉と説いた。
■チャーチルにみる先見力と硬骨の信念
 責任倫理を問題にするとき、よく名があがるのが、第二次大戦でその卓越した先見力と意思力をもって、英国を勝利に導いたウインストン・チャーチルだ。
 チャーチルは第二次大戦の勃発をその数年前から警告していた。国民やマスコミは、ドイツに対する軍備増強を訴え続ける彼を単なる好戦主義者と無視した。それどころかマスコミは、一九三八年のドイツのオーストリア併合に続いてチェコ・ズデーテン地方の割譲に合意したミュンヘン会議にいたっても、「チェンバレン首相の対独宥和政策こそ平和への道だ」と賞賛した。
 しかし事態は逆に展開した。
 翌三九年、独・ソのポーランド進攻を端緒に、戦火はヨーロッパ全土にまたたく間に広がった。このとき初めて英国民はチャーチルの警告の意味を理解した。チャーチルが海相に任命されたのは、大戦勃発の二日後だった。戦時挙国内閣の首相に就任するや、チャーチルは議会でこう演説した。
「私には、血、労役、涙、汗のほかに何も提供するものがない……あらゆる犠牲を払い、あらゆる恐怖にうち克って勝利を手中にしなければならない。それがどれほど長くつらい道程であるとしても、勝利のほかに生きのびるすべはないのだから」
 そして戦時内閣を組んだその夜の昂揚を「私の過去の生涯は、すべてこのとき、この試練のための準備にほかならなかった」と記した。以後、絶望の淵にある国民を執拗に鼓舞し続け、反ファシズムという信念の下、その重責を最後まで引き受けた。

■国益のためには世論の批判を恐れず
 国益が優先される高度な意思決定は、往々にして国民の大きな反撥を受ける。
 日本と同様、第二次大戦で敗北したドイツは、米・英・仏・ソビエト連邦によって分割統治されるが、一九四九年、米・英・仏の自由主義国の占領地は西ドイツとして再出発する。だが、このとき西ドイツは米ソの冷戦の真只中に位置し、ソ連の脅威にさらされることになった。
 戦後西ドイツの初の首相になったコンラート・アデナウアーは、国防軍の創設を意図した。しかし、国民にはナチス時代の苦い思い出から、軍の創設にアレルギーがあった。一九五二年、アデナウアーは連邦議会で国民にこう訴えかけた。
「私は、連邦政府の名において宣言します。高貴な軍の伝統にもとづき、地上や海上あるいは空で戦ったわれらの兵士すべてをわれわれは賞賛する。ドイツ軍の名声と偉大な功績は、過去数年間に、あらゆるそしりを受けましたが、それでもなお生きつづけている、そうわれわれは確信しているのです。さらにわれわれはそれを解決できると私は信じているのであります。だからわれわれは、共通の使命としてドイツ軍人の道徳的価値を民主主義と融合させなくてはならないのです」
 西ドイツが主権回復と同時に国防軍を創設し、軍事同盟である北大西洋条約機構に加盟するのは、その三年後のことである。
 何かにつけキューバ危機における決断力と忍耐力が評価されるケネディ米大統領だが、補佐官であったセオドア・ソレンセンは〈いかなる大統領といえども、世論の圧力にのみ応えることは絶対に許されない。大統領は世論を尊重する責任と同時に、世論を指導する責任がある〉(『ホワイトハウスの政策決定の過程』自由社刊)と述べている。
■戦後政治に際立つしたたかなリーダー
 戦後政治の中でもっとも国民の反発を受けた出来事は一九六〇年の日米安保条約の改定だろう。自然承認の日の反対デモの参加者は全国で六〇〇万人におよんだ。しかし岸首相は自らの信念を貫いた。安保条約の片務性を双務条約に変えることで占領体制の清算と日本の独立が完成すると考えたからだった。
 岸は晩年「安保改定がきちんと評価されるには五〇年かかる」といい残したが、その執念は〈仮に総理在職中の全仕事を一〇とすれば「七ないし八ぐらいに相当する」と述べている〉(原彬久『岸信介』岩波新書)。しかし、世論の逆風は強く、条約が自然承認された四日後に退陣を表明。「声なき声を信じる」との無念の言葉を残した。
 ベトナム戦争を終結させ、米中国交回復を果たしたリチャード・ニクソン米大統領は、著書『指導者とは』(徳岡孝夫訳、文藝春秋刊)で、世界のリーダーと渡り合った経験を踏まえて、指導者の条件を挙げている。(1)指導者は、いつ戦うべきか、いつ退くべきか、いつ所信を貫くべきか、いつ妥協すべきか、いつ発言し、いつ沈黙すべきかを知らねばならない。(2)指導者は広い視野を持つと同時に、明確な戦略と目線とヴィジョンを持たねばならない。(3)指導者は、全体を眺め、一つの決断と他の決断との関係を見極めなければならない。──さらにニクソンは、希有な日本のリーダーとして吉田茂を挙げている。
 吉田は戦後日本の国のかたちとして、ドイツとは逆に、「軽武装国家」を選択することでいち早い経済復興をめざした。ただ強烈なナショナリストでもある吉田は、しばしば占領軍に逆らいながら、したたかな交渉力を発揮した。あるとき吉田は、食糧難によって数百万人の餓死者が出るという統計をもとに「餓死者が出たら日本中が赤旗で埋まってしまう」と、占領軍に食糧援助を要求した。その後、総司令官マッカーサーが「いっこうに餓死者が出ないではないか」と詰問すると、吉田は「日本政府の統計が正確なら、戦争には負けなかった」と答えたという。