祖父の葬儀
祖父が倒れていたのは書斎の椅子の上だった。それは黒い雨の降り注ぐ明朝のことだった。背もたれに大きく仰け反り、視線は天井の一角を不乱に捕らえ、力なく垂れ下がった右手の先には朱色の万年筆が頼りなく引っ掛かっていたのを覚えている。それから、父が私の肩を押しやって、私は流されるまま書斎に踏み込んだが、そこから一歩も動けずに父が祖父を抱き起こすのを呆然と眺めていた。主を失った椅子は音を立てて床に転がり、ナイロンのキャスターがくるくると勢いよく廻ったが、やがて諦めたように静止した。それから両足が立っていられないほど震えていることに気が付いた。
葬儀の準備が滞りなく進められていく傍らで、私はひとり祖父の視線に囚われていた。天井の一角を見つめていた祖父の目は身の毛がよだつほど鋭利だったが、同時に自らの膨張した何かを頑なに堪えているような厳格さに満ちていた。それは私が尊敬する祖父の常態と同一のものであり、祖父が自身の生き方を死の淵まで貫いたという証だった。
準備が一段落したのか、男達は自身の近況や世事を語らい、女達は忙しそうに茶菓子の封を破っていた。誰も祖父の話をしなかった。祖父の映画や書籍の話も一向に話題に上らなかった。それは当然のことだった。誰ひとりとして祖父を語る資格などありはしないのだから。
父が私の名を呼んだ。それが私の中でどうしようもなく膨張した何かを決壊させ、暴力が言葉となって腹の底から飛び出した。「貴様なんかに俺の名を呼ぶ資格はないんだよ、この寄生虫が」と私は声にならないほど叫んだ。頭蓋骨が割れ、そこから脳が噴出したかのように私は一切を突き抜けた。そして、そんな原始的な私に祖父があの冷厳な視線を向けるのを感じた。
「お前の名前は私が名付けたのだよ、誠司」祖父の言葉が甦る。
「誠実を司るような男になって欲しいと願いを込めた。うん、そうだな。私にも皆目見当がつかないし、もしかしたら存在しないのではないかと疑うことすらあるよ」
その通りだと思った。誠実なんて都合の良いものが存在するならば、この世界はもう少しマシなものだったはずだ。この陰惨な世界の在り方こそが誠実の不在を見事に証明しているではないか。しかし、祖父はそれを覆すような言葉を私に贈ってくれていたはずだった。全ての悲哀を払拭し、惑う人々の魂を導くような言葉を。あの言葉の続きを聞こうと思えばいつでも聞くことが出来たはずだが、その機会は指の隙間から零れ落ちもう二度と戻らないのだ。祖父の手に温かみはなく、私の頭を撫でることも最早なかった。
「役所に申請してくる」煩わしそうに静まり返った一同を尻目に、私は書類を抱えて家を飛び出し降り頻る黒い雨の中をひた走った。祖父を、火葬するための書類を胸に抱えて。
祭りだ、とふいに思った。火を灯し儀式を執り行う。灯りに魅せられて人は集まり、その活気がまた人を集める。だが、誰も祭る対象になど興味はない。やがて祭りは終わり、群がった簒奪者が祖父から全てを奪い取っていくだろう。
気が付くと私は祭りの灯りに背を向けて、黒い雨に塗れた路地を何かの儀式のように走り続けていた。