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日々の心の声

嫁・子供2人犬2匹家族の絵に書いたような普通のパパの日記

なぜ問題がある「詰める文化」はなくならないのか

部下を「詰める」ことは僕にもあります。放っておいても結果を出せる人間もいれば、適切なタイミングでお尻を叩いてあげないと(体罰的な意味ではなく)結果を出せない人間もいるためです。ただしその方法として、「なんでできないの?」に代表されるような、自責を相手に強制する「詰め」は意味がないと思います。また、相手を叱責するという指導は、そもそもできるだけしたくない。

誰だって、怒られたくないし、怒りたくもないのではないでしょうか。それなのに、どうして詰める文化が生まれてしまうのかには、過去に自分が詰められて指導されたためにそれ以外の指導方法を持っていないとか、これまで詰めて指導した部下の育成が上手く行った成功体験があるとか、あとは企業文化として詰めることが常態化している、それが正義とか、さまざまな理由があるでしょう。

でも、指導方法が詰める一択では芸がないし、詰めて育った一握りの人材の陰ではたくさんの人材が潰れて辞めているのかもしれません。詰めるのが企業文化だとしてはばからない会社からはすぐに逃げ出したほうがいいです。パワハラとかモラハラとかのセンシティブな問題をはらんでいる行為ですので、その自覚が薄いようであれば、他にも何かと苦労することになると思います。

「詰める」のは簡単です。まず、自分の感情をコントロールする必要がありません。叱責された部下は思考を放棄するのでマウントしやすくなり、権力を誇示できるため気分がよくなってしまう上司も一部にいることでしょう。心理的に選択しやすい指導方法だからこそ、詰める文化はなくならないし、詰める文化を存続させるために詰められる部下が出現するという構造的な問題もありそうです。

では、もし部下が失敗をした場合は、どう指導すればいいのでしょうか。以前、跳ねっ返りの強い部下の失敗を「詰めて」いたときのことです。一通りヒアリングを終えて、僕はまず「そもそもココがちがう」とミスを指摘し、最適だと思う方法を提示しました。しかしその部下は、その方法が最適であるとしながらも、「気にくわない」と言います。こちらもカチンと来ながらですが、その部下の言い分を聞いてみることにしました。

「自分がまちがっていたことは理解している。だけど、どんなにバカバカしい失敗だったとしても、否定しないでほしい。私は認められたい」  要約するとこんなところです。場合によっては、開き直りをさらに詰めることになりそうですが、そのときの僕は「たしかに、そういうものだよな」と思いました。当たり前ですが、部下は人間です。その心の機微を無視したマネジメントは成功しないか、コミュニケーションロスが大きいと気付いたのです。

しかし、ここまで説明してきたように、さまざまな問題のある「詰める」という指導方法を安易に選択するようになってしまったとき、「相手を成長させて、生産性を上げる」というビジネスの現場における指導の本質が失われがちであることは、マネジメントをする立場の人間として心に留めておきたいと思います。つい叱責のために口を開きかけたときは「その指導は誰のためにあるのか」と、自分に問いかけるようにするのはいかがでしょうか。

マネジメントは時代と相手により自由自在に変化する、良問であり難問です。正解までたどり着けないと知りつつ特定の解法にこだわるのは、試験のような部分点もない以上、時間のムダになってしまいます。