雨はいつの間にか小降りになっていた。少女は久我を睨みながら、栄養バーの残りをポケットへしまう。

その視線は依然として警戒心に満ちていた。まるで野良猫だ。餌をもらったからといって懐くわけではない。

むしろ余計に警戒する。

「……ついてきて」

唐突に少女が言った。

「え?」

「ここで立ち話する気?」

そう言って周囲を見回す。久我もつられて見回した。

薄暗い路地、割れた窓、監視カメラらしきもの。そして時折通り過ぎる人影。

少女は小さく舌打ちした。

「保安省に見つかったら面倒なんだよ」

そう言うと歩き出した。久我は少し迷ったが後を追う。

少女は何度も後ろを確認しながら路地を進む。

細い道、壊れたフェンス、放置された車。

まるで都市そのものが放棄されたみたいだった。

やがて一軒の廃ビルへ辿り着く。かつては事務所か何かだったのだろう。

入口のガラスは割れ、看板は錆び、壁面には巨大な政治標語が描かれている。

『人民は革命を忘れない』

少女は迷いなく中へ入り、階段を降りる。

地下。湿った空気と薄暗い通路。そして。

「ここ」

小さな地下室だった。

マットレス、毛布、ランタン、木箱、空き缶。

最低限の生活用品。

だが思ったより整理されている。

久我は少し安心した。少女はその反応を見逃さなかった。

「何」

「いや……思ったより綺麗だなって」

「褒めてる?」

「うん」

少女は露骨に嫌そうな顔をした。

「変なやつ」

そう言いながらも、少しだけ表情が緩んだ。

久我は木箱の上へ腰掛ける。少女は向かいの壁にもたれた。

沈黙。

地下室の天井から、ぽたり、ぽたりと水滴が落ちている。

やがて久我が口を開いた。

「ひとつ聞きたい」

「なに」

「この国って……どんな国なんだ?」

少女は眉をひそめた。

まるで、そんなことも知らないのか?と言いたげだった。

「日本人民共和国」

「うん」

「学校で習うだろ普通」

「まぁ……そうなんだけど」

曖昧に誤魔化す。少女は訝しそうにしながらも話し始めた。

「党が全部決める」

「全部?」

「全部」

即答だった。

「仕事も。配給も。住む場所も。学校も」

久我は黙って聞く。

「選挙は?」

少女は吹き出した。本当に吹き出した。

「は?」

「選挙」

「そんなのテレビで見るやつだろ」

久我は言葉を失った。少女は続ける。

「党の候補が出る。みんな投票する。百パーセント近く賛成する。それで終わり」

「……」

「毎回そう」

久我の背中を冷たいものが流れた。

少女にとっては、それが当たり前なのだ。

次に経済を聞く。すると少女はさらに呆れた顔をした。

「経済って何」

「え」

「難しい言葉使うなよ」

久我は少し考える。

「みんなの暮らし」

「ああ」

少女は鼻で笑った。

「最悪」

即答だった。

「配給だけじゃ生きられない」

「そんなに?」

「そんなに」

少女は栄養バーを取り出し、じっと見つめる。まるで宝石みたいに。

「これ一個で、一週間分の配給より美味い」

久我は返す言葉を失う。少女は続けた。

「肉なんか年に何回食べられるかな」

「……」

「だからみんな密売やる」

「闇市か」

「闇市って言うな」

少女は即座に否定した。

「生きるためだ」

その言葉に、久我は何も言えなかった。しばらく沈黙。

やがて少女が逆に聞いてきた。

「でさ」

「ん?」

「ほんとは何者なの」

またその質問だ。少女は真剣だった。

「中央の人間じゃない」

「違う」

「保安省でもない」

「違う」

「じゃあ外国」

久我は首を傾げる。

「外国?」

少女は少し声を潜めた。

「アメリカ」

地下室の空気が変わる。まるで禁句みたいに。

「密かに入ってきたスパイとか」

久我は苦笑する。

「違うよ」

「じゃあ亡命者?」

「亡命者?」

「昔いたんだよ」

少女は言った。

「船で逃げたやつ」

「……」

「党が嫌で」

「そんな人たちがいたのか」

「いた」

少女は頷く。

「ほとんど帰ってこないけど」

そして少し考えてから、

「でもあんた、そういう感じする」

と言った。

「どんな感じ」

「戻ってきた人」

「なぜ?」

少女は真っ直ぐ久我を見た。その瞳は妙に鋭かった。

「この国見て驚いてるから」

久我は息を止めた。

「みんな知ってるんだよ」

少女は静かに言う。

「この国が貧しいこと」

「……」

「おかしいこと」

「……」

「でも、生まれた時からこうだから」

少女は肩をすくめた。

「驚かない」

地下室が静まり返る。その言葉は、久我の胸へ重く沈んだ。

そうだ。彼女たちは知らない。コンビニも、ネットも、自由な旅行も。

深夜まで明るい繁華街も。好きな本を読めることも。好きなことを言えることも。

知らない。だから比較できない。少女は久我を見つめた。

「でもあんたは違う」

ぽつりと言う。

「初めて東京来た田舎者でもない」

「……」

「まるで別の国見てるみたいな顔してる」

久我は何も答えられなかった。なぜなら。

その指摘は、あまりにも正しかったからだった。

 

 

地下室には静かな時間が流れていた。雨音だけが遠くに聞こえる。

久我は木箱の上に座ったまま、少女から聞いた話を頭の中で整理していた。

整理しようとしていた。だが整理すればするほど、背筋が冷たくなっていく。

「……」

少女は壁にもたれたまま栄養バーを少しずつ齧っている。久我はぽつりと尋ねた。

「建国は何年だっけ」

「人民共和国?」

少女は即答した。

「一九四九年」

「その前は?」

「革命政府」

「その前」

「占領時代」

「その前」

「帝国日本」

少女は不思議そうな顔をする。

「何回も聞くなよ」

久我は黙った。戦後。革命。人民共和国成立。

東側陣営。計画経済。配給制度。秘密警察。言論統制。そして慢性的な貧困。

ひとつひとつが、元の世界の日本と全く違う。

まるで歴史の教科書の国がそのまま日本になったような世界。

しかも少女の話では、皇室は存在しない。昭和天皇も、皇族も。

学校では「旧支配階級」としか教えられない。皇居もない。革命記念塔になっている。

久我は無意識に額を押さえた。頭が痛い。歴史学者としての自分があり得ないと叫んでいる。

だが目の前の現実が、それを否定している。

(分岐したんだ……)

その結論しかなかった。

どこかで、戦後のどこかで世界が別れた。

そしてここはその先にある日本。

あり得たかもしれない、もうひとつの戦後日本。

久我は視線を落とした。

濡れた革靴に腕時計、コート、スマートフォン。

どれもこの世界には存在しない。

少なくとも、庶民が持てるものではない。

少女は言っていた。外国放送を聞いただけで連行される。

配給だけでは生きられず、闇市が必要。

党がすべて決める。その事実がじわじわと現実味を帯びてくる。

そしてある考えが頭をよぎった。

(もし戻れなかったら……?)

その瞬間、胃が重く沈んだ。戻れなかったら。

大学は?教授は?研究室は?

…家族は?…友人は?…今までの人生は?

全部終わりだ。

戸籍もない。身分証もない。仕事もない。金も使えない。知り合いもいない。

この世界では自分は、存在していない人間だ。

久我は拳を握った。震えていた。

(どうする……)

歴史学者としてなら、いくらでも分析できる。だが当事者になった途端、何も分からない。

どう生きればいい。どうやって食う。どこで寝る。そもそも明日を迎えられるのか。

秘密警察に捕まったら?身元を聞かれたら?戸籍を出せと言われたら?

答えられるわけがない。

久我はゆっくり顔を覆った。呼吸が浅くなる。地下室の空気が重い。

少女は最初、その様子を黙って見ていた。演技だと思った。

何かの芝居。あるいは情報を引き出すための罠。

だが数分、五分、十分。

久我は何も喋らない。

ただ俯いている。顔色はどんどん悪くなる。

額には汗、唇は青白い。その表情には計算された様子がまるでなかった。

少女は少し落ち着かなくなった。

「……おい」

返事がない。

「おい」

久我が顔を上げる。その顔を見て少女は一瞬言葉を失った。

それは恐怖だった。誰かに怯える恐怖ではない。

もっと根本的な世界そのものが崩れた人間の顔。

彼女はそんな顔を見たことがなかった。少なくとも、この国で生まれた人間なら。

「……」

少女は眉をひそめた。

「なあ」

久我は視線を向ける。少女は少し迷った。だが結局ずっと引っかかっていた疑問を口にした。

「本当に何者なんだよ」

静かな声だった。

「亡命者でもないだろ」

「……」

「スパイでもない」

「……」

「党の人間でもない」

少女は真っ直ぐ久我を見た。地下室のランタンの光が揺れる。

「だったら何なんだ」

久我は答えられなかった。答えれば、頭がおかしいと思われる。自分でも信じられない話だ。

だがここまで来て、もう嘘を重ねる気力も残っていなかった。

少女はじっと待っている。久我は長く沈黙した。

そして掠れた声で言った。

「……信じないと思うけど」

「言ってみろ」

「俺は」

そこで言葉が止まる。喉が渇く。心臓が嫌な音を立てる。

それでも久我はゆっくり口を開いた。

「別の日本から来た」

地下室が静まり返った。雨音だけが聞こえる。

少女は瞬きをした。一回。二回。三回。そして、

「……は?」

と言った。