【大東亜戦争】
現在、一般的に使われている【太平洋戦争】という呼称は、第2次世界大戦直後に当時の【大東亜戦争】という呼称をGHQにより公文書における使用が禁止され、その後の言論統制により普及したものである。
【大東亜戦争】という呼称は、昭和16年(1941)年12月8日の開戦から2日後の日本政府による閣議決定、『今次の対米英戦争 及び 今後情勢の推移に伴い生起することあるべき戦争は支那事変をも含め大東戦争と呼称す』による。
日本の対アメリカ、イギリス開戦時、当時の支那事変(日中戦争)は、中国軍がアメリカとイギリスの支援なしには戦争行動を継続できない状態になっており、事実上の日本とアメリカ・イギリスとの代理戦争の様を呈していた。
そのため日中戦争と対アメリカ、イギリス開戦は切り離して捉えることができず、アメリカ側の意図した呼称『太平洋戦争』で呼ぶのは適切ではない。
我が国の史観に基づくならば、正しいのは【大東亜戦争】であり、我が国にとってのアメリカ、イギリスとの直接対決は【大東亜戦争における太平洋戦線】に過ぎない。
またこの呼称は、当時大半のアジア諸国が欧米列強の植民地支配下にある中で、【大東亜新秩序建設を目的とする戦争】(情報局発表)であるとして、アジア諸国の独立を目指した蜂起であるという(建前ではあるが)意味合いも含んでいる。
【真珠湾攻撃】
真珠湾攻撃に関しては、日本軍が騙し討ちをしたという説から大統領ルーズベルトが初めから全てを分かっていてあえてハワイを攻撃させたという説まであるが、今のところはアメリカは開戦までは分かっていたがハワイではなくフィリピンを攻撃してくると考えていたというのが一般的である。
日本海軍の聯合艦隊司令長官 山本五十六の思惑は、ハワイ真珠湾に位置するアメリカ太平洋艦隊の主力たる航空母艦を殲滅し、アメリカ軍の交戦能力を限りなくゼロにまで奪い、アメリカ将兵の戦意を奪うのみならず国民の中で高まりつつある厭戦(えんせん)機運を一気に増大させることにあった。
しかし、おそらくは暗号解読によって空母は事前に真珠湾を離れていたばかりか、さらには外務省の最後通牒手交の遅延、ルーズベルトの策略により逆にアメリカの対日感情、戦闘機運は拭い難いものとなってしまった。この攻撃後に国民的英雄と祭り上げられた山本長官だが、彼にとってハワイ作戦とは失敗以外の何物でもなかったのかもしれない。
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この作戦で活躍した戦闘機は、もちろん零戦である。空母から何百という戦闘機を発進させ、現地を爆撃するという作戦は、当時の戦略の常識を塗り替えた。それは装甲の厚さを犠牲にして極限まで軽量化、機動化を図った零戦だからこそ出来た離れ技であるが、同時に日本軍の作戦の綱渡りのような危険さも象徴している。
宣戦布告が遅れたのは在米大使の不手際であったというのは、実はほんの二十数年前に初めて明らかになったことである。それまで真珠湾攻撃は【騙し討ち】とされ、外務省はその失態を戦後半世紀以上も隠していたのである。不手際を起こした当時の大使は何ら処罰を受けていないばかりか民間の企業に天下っている。
聯合艦隊司令長官 山本 五十六
【ハルノート】
昭和16年(1941)11月26日にアメリカから日本に提示された【合衆国及び日本国間協定の基礎概略】と【オーラル・ステートメント】、これが世にいう【ハルノート】である。東郷外務大臣は、これを受け取った衝撃を『目がくらむばかりの失望』とし、木戸内務大臣は万事休すとした。戦争回避のために奔走した多くの人々にとって、まさにとどめの決定打であった。その内容は以下の通りとなる。
1. ハル4原則の無条件承認
2. 支那(中国)・仏印(ベトナム・ラオス・カンボジア)より軍・警察の全面撤退
3. 日独伊三国同盟の死文化
4. 中華民国の重慶政権(国民党政権)以外の政権否認
これは今までの日米交渉のプロセスを度外視した、まさしく最後通牒とみなされるものであり、アメリカ大統領の斡旋(あっせん)により成立したはずの明治38年日露講和条約を踏みにじり、遼東半島の租借権のみならず全満州からの撤退を要求するものであった。
さらに、支那(中国)からの撤退とは『朝鮮半島も中華世界の一部である』という当時の常識から照らし合わせ、朝鮮半島からの撤退をも要求するものだったと考えるのが妥当である。しかも、これは石油の輸出再開のための条件として提示されたものではない。
分かりやすく言えば、これは【日清、日露戦争以前の日本に戻ることができれば話し合いだけには応じる】と言う内容のもので、日米の立場を入れ替えれば【アメリカインディアンから奪った土地を全て彼らに返せば話だけは聞いてやる】というものである。
このような内容の条文を日本が呑めたはずもなく、まさに事実上の宣戦布告に等しい。なお、このハルノートはハル国務長官本人が創案したものではない。ハル自身はより宥和的な協定案を作成していたが、ルーズベルトは財務省のハリー・デクスター・ホワイトが作成した強硬案をハルノートとして採用したのである。
ところが、このホワイトこそがアメリカ財界の中枢に潜んでいたソ連の工作員の一人であり、結果として日本はソ連の意のままにアメリカへと宣戦した。日本政府は治安維持法の施工やゾルゲ事件、尾崎秀実などの共産主義スパイと必死に戦っていたが、一方でルーズベルトはソ連コミンテルンにも支那共産党にもその警戒心がまるで無かった。
第2次大戦後、アメリカはソ連との代理戦争、冷戦を戦うことになるが、これは皮肉ではなく政策の失敗による歴史の必然であるといえる。
アメリカ第32代大統領フランクリン・ルーズベルト
国務長官コーデル・ハル (国務長官とは日本でいう外務大臣である)