アッツ島とキスカ島

 

大東亜戦争は数々の感動的な逸話を産んだ。その一つがアッツ島とキスカ島である。

 

昭和17年(1942)5月12日。アリューシャン列島。増援を待っていた日本軍のアッツ島守備隊の前に、30隻のアメリカ軍の船団が上陸。大本営はともに逆上陸作戦を企図したが、20日、日本軍の増援隊は急転し、アッツ島への増援は断念された。

アッツ島は見捨てられたのである。

 

5月29日。熱田湾平坦地に追い込まれたアッツ島守備隊は、夜襲敢行を決定。20:00、全員ではるか西南の故国、日本へ向かって【天皇陛下万歳】を三唱、最後の打電。21:15、『機密書類焼却、無線機破壊』を通知し、日本との連絡を絶った。

 

5月30日、大本営によりアッツ島守備隊2600名の玉砕が発表された。大東亜戦争において【玉砕】の文字を使った最初のものである。

 

東條英機 首相は、北方に向かって端座し手を合わせて黙祷したと言われ、5月29日付でアッツ島の指揮官だった山崎保代 大佐は二階級特進し陸軍中将に任ぜられた。

 

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以下は宮中に参内した杉山元 参謀総長が山崎部隊からの最後の電報について、天皇陛下に奏上した時の会話である。

 

陛下『山崎部隊は最後までよくやった。自分は嬉しく思うと打電せよ』

杉山『無線機は破壊しているので、受信されません』

陛下『それでも電波をだすように・・・』

 

一方、アッツ島の隣にあるキスカ島撤収作戦『ケ号作戦』が練られるが、アメリカ軍の厳重な包囲に阻まれ、潜水艦による820名の救出に成功したものの、7月に入り水上艦艇による一挙撤収は失敗した。

 

最後のチャンスとなった7月下旬。日本水雷部隊は再びキスカ島に接近するも、濃霧のため衝突事故が多発。2隻が帰投してしまう。よもやこれまでかと思われたとき、突如、濃霧が増大。日本の突入は敢行され、陸海軍の全将兵は艦隊に収容された。直後にアメリカの浮上潜水艦に軽巡『阿武隈』が発見されるもこれをやりすごし、日本艦隊は奇跡的な作戦成功、撤収を果たした。

 

山崎 保代 大佐

 

玉砕の島々のその後

 

日本軍は中部太平洋の島々で次々に【玉砕】した。ある者は爆弾を抱えてアメリカ戦車に体当たりし、ある者は軍刀を振りかざして機銃掃射の直中に身を投じていった。現代の日本人から見ればにわかには信じがたい激烈な国民精神である。

 

また、これらの戦線では組織的抵抗力を失ってからも、なおも戦おうとする将兵が数多くいた。その代表的な例は以下のとおりである。

 

サイパン島

守備隊玉砕後、なお生き残った多数の将兵はタッポーチョ山付近をはじめ山地や海岸などの洞穴や岩陰に潜入し、遊撃戦を続行。

終戦3か月後、天羽少将の降伏命令により、大場大尉以下47名の生存者は戦友の霊に3発の弔銃を捧げた後、山を下った。この後、さらに25,6名の者が山中より収容された。

 

グアム全島

第29師団作戦・情報参謀 武田英之 中佐以下多数の将兵は、昭和19年(1944)8月11日の組織的戦闘終了後も、数名から十数名の小部隊となって密林に入り、遊撃戦を展開。終戦まで約1年に渡ってゲリラ戦を続けた。武田中佐が降伏調印を行ったのは昭和20年9月4日のことであった。

 

生存者の中には、昭和20年8月の終戦を信じず、長期にわたって潜入していた者もあった。皆川文蔵、伊藤正両氏が発見されたのは、戦後15年目の昭和35年(1960)5月。横井庄一 元軍曹

が発見されたのは、実に戦後27年目の昭和47年(1972)1月であった。

 

 

八月十五日

 

終戦の玉音放送が流れたとき、人々の反応は様々であった。

 

国民はあるいはラジオの前で泣き崩れ、あるいは神社の社頭で膝を折った。アメリカやイギリスの謀略であるとしてこれを信じようとしない者もいた。

将兵の中にも、自らの愛機に乗り込み突撃を敢行する者、徹底抗戦を呼びかける者、自決の道を選ぶ者などがいた。

 

しかし、玉音放送によりアジア各地に展開していた数百万の将兵は、総括的に見れば概ね平静に矛を下ろした。これほどの戦力を残しながら暴動や暴走もほとんどなく敵の軍門に下ったのであるが、これは世界戦争史の中では異例のことである。いかに日本軍が統制力を持ち、それを保持していたのかがわかる一幕である。

 

一方、アメリカのニューヨーク街頭では日本の降伏を喜ぶ民衆で道路が埋め尽くされ、人々は抱き合って勝利を喜んだという。大東亜戦争がアメリカにとってもいかに悲痛なものであったことを伺わせる光景であった。

 

 

ソ連の参戦

昭和20年(1945)8月15日の終戦後、各地の戦線は停戦した。しかし、一国だけ、なおも日本への侵攻をやめず、軍民問わず攻撃してきた国があった。ソ連である。

 

満州北部は8月18日に停戦。樺太はソ連の全島踏破により25日に停戦。千島列島に至っては、降伏調印から3日後の9月5日、それも列島南端の歯舞諸島に至るまで進軍は止まらなかった。ソ連及び後継ロシアによる実効支配占拠は今に至る。北方領土問題である。

 

さらに略奪暴行によって多くの在留邦人が犠牲となり、その災禍は満州の多くの都市、樺太の真岡、北海道への引き上げ船撃沈など、枚挙に暇がない。

 

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ポツダム会談での米ソ軍事境界線は千島列島方面が明確でなかった為、先に既成事実を作りたかったスターリンは、樺太占領の後に最終的には、北海道北部にまで占領作戦を計画していたのである。

 

樺太・千島での日本軍は、終戦後もこれを戦い善戦した。これがソ連の北海道侵攻を未然に防いだのである。

 

ソ連は終戦翌日の8月16日、捕虜のソ連領移送はおこなわないと指示しておきながら、日本軍捕虜60万人のシベリア移送計画の極秘指令を発し、最長11年にもわたる長期間、劣悪な環境で拘留労役させ、約6万人の死者を出した。

 

ソ連は昭和21年から段階的に拘留者を日本へ送還したが、これにより我が国のソ連に対する不信、反ソ感情は拭い難いものとなり、その後の東西冷戦のイデオロギー対立にも大きく影響した。

 

樋口 季一郎 中将 (占守島の戦いを指揮し、結果的にソ連の北海道侵攻を阻止した)