アジアの民衆
日本は開戦当初、自らの予想を上回る破竹の快進撃をおこなった。マレー半島は上陸後わずか55日目にして制圧。半年足らずでビルマ(現ミャンマー)、オランダ領東インド(現インドネシア)を次々に制覇した。イギリス軍、フランス軍と違い、フィリピンや珊瑚海で日本軍をてこずらせたのはアメリカ軍だったが、これも激戦の後に一時撤退していった。
これらの成功は日本人だけの力によるものではない。現地の地主、権力者らが民族主義的見地から日本軍に惜しみなく協力したためである。
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しかし、これら現地政策(=治安維持)は必ずしも成功したわけではない。最も困難を極めたのがフィリピンであった。フィリピンは他のアジア欧米植民地とは違い、宗主国(アメリカ)への経済依存率が極めて高く、また多くの住民が既にキリスト教への改宗をおこなった後であり、日本軍の進出を受け入れる文化的背景は希薄であった。
さらに多くの華僑が経済進出を果たしており、中でも中国共産党に加担していた華僑地主らが抗日ゲリラを率いて日本軍を悩ませた。
ともあれ、日本軍は一時的であるにせよ東南アジア各国から支配者、すなわち白人を追い出した。現地の民衆がこれを歓迎しないわけが無い。その後、日本は敗れたとはいえ、このことは後のアジアの運命を完全に変えることとなった。
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大東亜会議
昭和18年(1943)11月5日、東京にて大東亜会議が開催された。
東條英機首相が1月より半年の間に、満州国、フィリピン、タイ、インドネシアを精力的に歴訪し、各地の指導者と独立に関する協議を進めた。その仕上げが11月の大東亜会議であった。
出席者は以下のとおりである。
・東條英機 大日本帝国内閣総理大臣
・張景恵 満州国国務院総理
・汪兆銘 中華民国(南京国民政府)
・ワンワイタヤコーン親王 (タイ王国首相代理)
・ホセ・パシアノ・ラウレル (フィリピン第2共和国大統領)
・バー・モウ (ビルマ共和国国家主席)
・チャンドラ・ボース (自由インド仮政府首班)
大日本帝国総理大臣 東條英機
満州国国務院総理 張景恵
中華民国代表 汪兆銘
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以下は出席した各代表の発言である。
大日本帝国代表 東條英機
『洵(まこと)にアメリカ、イギリス両国が抱く世界制覇の野望こそは、人類の災厄、世界の禍根だ。大東亜各国は正に其の自主独立をば尊重しつつ、全体として親和の関係を確立すべきである。』
中華民国代表 汪兆銘
『国父・孫文先生が日本に対し切望いたしました所の、中国を扶(たす)け不平等条約を廃棄するということも、すでに実現せられたのであります。
重慶(蒋介石)政権は他日必ずや、アメリカとイギリスに依存することはアジアに反逆することとなり、同時に国父・孫先生に反逆することなるべきを自覚し、将士及び民衆もことごとく翻然覚醒する日の到来することは必定たるべきことを断言しうるのであります。』
満州国総理 張景恵
『此の際私は、本年1月第81議会の施政方針演説に於いて、東條首相閣下が【満州国の今日の発展充実は取りも直さず大東亜全域の明日を示すものである】と叫ばれたことを、共感と感激とを以て、想起せざるを得ないのであります。』
フィリピン大統領 ホセ・パシアノ・ラウレル
『東條閣下の茶会を催された室に入りますや、私は感涙、頬を伝ふると共に、鼓舞せられ、且つ霊感を受けたのであります。私は其のとき、【十億の東洋人、十億のアジア人よ。なぜに御身ら等の多くは米英に、殊更にアメリカ、イギリス両国に斯くも圧迫支配されたのであろうか】と叫んだのであります。』
ビルマ代表 バー・モウ
『我々多くの者が長い間彷徨(さまよ)い、救いを求めて与えられなかった荒野から、我々を救い出してくれたのは、東洋の指導者国家、日本であります。』
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2日目にはこのようなやりとりがあった。
バー・モウ
『イギリスはインドの資源を以て東アジアの侵略をおこなっており、自由なるインド無くして自由なるアジアは存在しない。』
自由インド仮政府首班 スバス・チャンドラ・ボース
『大東亜共同宣言が全世界の被抑圧民族の憲章たらんことを祈る』
2日目、東條により『大東亜共同宣言』の採択が提案され、全会一致で採択された。
・大東亜各国は協同して大東亜の安定を確立し、同義に基づく共存共栄の秩序を建設す。
・大東亜各国は相互に自主独立を尊重し、互助敦睦の実を挙げ大東亜の親和を確立す。
・大東亜各国は相互に其の伝統を尊重し、各民族の創造性を伸長し、大東亜の文化を昂揚す。
・大東亜各国は互恵のもと緊密に提携し、其の経済発展を図り大東亜の繁栄を増進す。
・大東亜各国は万邦との交誼を篤うし、人種差別を撤廃し普く文化を交流し、進んで資源を開放し以て世界の進運に貢献す。
後の成立する世界人権宣言とほとんど同じ理念が掲げられている。アジア各国が自らの尊厳のために手を携え合う、まさに大東亜共栄圏の実現のために、大きく舵を切り始めた瞬間であった。
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大東亜会議は終始【民族会議】の気運に満ちていた。しかし皮肉なことに、列席者の中で最もその自覚に乏しかったのは、恐らく主催者である東條自身であった。彼にとって大東亜会議とは、戦争への協力を取り付けるために民族自決を助ける約束をする取引の場でしかなかった。
会議中にフィリピンのラウレル大統領から『日本は独り自己のみが生存し、アジアの同胞が滅び苦しむことを幸福とするものでないことは、私の十分承知して居るところであります』と釘を刺される場面もあった。
また、インドのチャンドラ・ボースも『ただし日本には、良い政治家がいない。これは致命的かもしれぬ。』と会議後に語ったとされる。
スバス・チャンドラ・ボース