旅順攻囲戦

 

明治37年(1904)4月、ロシアは海戦での劣勢を挽回するべく、バルチック艦隊の東アジア派遣を発表した。聯合艦隊はこのとき、旅順港に立て籠もっていたロシア旅順艦隊を一刻も早く撃滅して、疲弊した艦隊を立て直す必要があった。

 

そこで旅順港の狭い出入り口を封鎖すべく、ここに多数の商船を鎮めようとしたが失敗し(旅順口閉塞作戦)、以後は旅順港に据え付けられた砲台のために近づくことすらできず、日本海軍は陸から旅順要塞を攻め落とすよう陸軍に要請した。

 

※バルチック艦隊...バルト地方に停泊していたロシアのヨーロッパ艦隊。規模、練度ともに世界最高クラスとみられていた。

 

 

中国大陸(当時は満州)、遼東半島の旅順港

 

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要塞化した旅順港を攻略するため、陸軍は新たに第三軍を編成。指揮官に乃木希典 大将を迎えた。この戦いは約9万人を動員し、戦死者15390名、負傷者43814名を出しながら、半年もの時間を割いて達成された。

 

本来ならこのような作戦には敵陣近くまで塹壕を掘り進めて安全に接近し、そこから攻勢をかけるというのが正攻法だが、日本海軍の強い要請により危険な正面突撃を強いられることとなった。すなわち、人命で時間を買う戦法を選んだのである。

 

第三軍司令官 乃木 希典

 

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海軍は『二百三高地を占領してロシア旅順艦隊の位置を捕捉し、砲撃してほしい』と陸軍に要請したが、陸軍は『二百三高地は旅順攻略の要ではない』と拒否し続けた。陸軍がここに主攻に転ずるのは第3次総攻撃の明治37年(1904)11月27日に白襷(しろだすき)隊の攻撃が失敗してからである。そしてここでは人類史上、前代未聞の血みどろの白兵戦が展開された。

 

弾薬が尽きれば石を投げ合い、あるいは銃剣で刺し合い、火山灰の降り積もった扁平な高地は敵味方の将兵の屍で埋め尽くされるという阿鼻叫喚の地獄絵図と化したのである。12月5日、ついにロシア側の援軍が途絶え、二百三高地は日本の手に落ちた。

 

実は、旅順に立て籠もったロシア旅順艦隊は既にこのとき満身創痍であり、おおかた戦闘継続能力を喪失していたのだが、日本側はこれを知る由もなかった。さらに、長らく二百三高地への攻撃をためらっていた乃木は無能であったとの論評が戦後を通じて成されたが、実際に二百三高地を攻略し終えて直ちに旅順が陥落したわけではない。旅順要塞の降伏はそこから27日後の話である。

 

さらに、捕捉されたロシア旅順艦隊の船らはほとんどが既に傾いていたとの証言があり、さらに山越えの砲撃によって撃沈したとされていた船についても、その命中率を疑問視する声が上がっており、実際には艦隊突入を覚悟したロシアの乗組員らが艦を自沈させたのではないかとの説が有力である。

 

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とはいえ、この旅順の戦いは戦争全体を通じ、全軍を挙げた奉天会戦(戦死16553名、戦傷53475名)を除けば最も過酷なものとなった。この戦いは乃木将軍を世界的に有名にしたが、彼もまた、児玉源太郎 総参謀総長をはじめ多くの人脈に支えられていた。

 

また、これに殉じた日本兵の勇敢さと愛国心は全世界で称えられ、その後の戦略の見本とされた。そしてこの戦いでの突撃精神は、その後の日米戦争における玉砕精神の前衛となったのは言うまでもない。

 

旅順攻囲戦の終結に際し、要塞の司令官ステッセル将軍を招いて有名な水師営の会見を開き両軍の健闘を称え合った。ここで乃木はステッセルに帯剣を許し、武人の名誉を重んじて待遇した。記者団に対してもインタビューや写真撮影を控えさせ、残されているのは、乃木が撮影を許可した一つの写真のみである。この行いは、日本の武士道精神を世界に広めるものとなった。

 

水師営の会見

 

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日本海海戦

 

旅順の陥落によってロシア太平洋艦隊は壊滅し、聯合艦隊はいよいよロシアのバルチック艦隊を迎え撃つこととなった。聯合艦隊は猛特訓を重ね、艦艇の修理を急ぎ、英気を養った。対するバルチック艦隊はこの時にも勝てる気でいたのかと言えば、決してそうではない。実は、バルチック艦隊の練度は驚くほど低く、半年以上の回航で隊の士気も弛緩しきっていた。

 

例えば、出航直後の明治37年(1904)10月22日、イギリスのドッガー・バンク近くで暗夜の中、イギリス漁船団を日本の水雷艇と誤認し砲撃する事件を起こした。これがドッガー・バンク事件である。もちろん、イギリス近海に日本の軍艦などいようはずがない。

これがイギリスを激怒させ、ロシアはアフリカ大陸の要所を全て握っているイギリス領への寄港が不可能となった。結果としてバルチック艦隊は困難な洋上での石炭積み込みを余儀なくされた。

 

1月1日にはロシア本国より旅順艦隊が全滅したことを伝えられ、バルチック艦隊長官のロジェストヴェンスキー将軍は『司令官解任要求』や『行き先はナガサキ(捕虜収容所を指す)』などと投げやりな電報を打ったりしていた。

 

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一方で聯合艦隊は着々と訓練を重ね、大砲の命中精度を上げていた。司令長官の東郷平八郎 大将『機先を制するは戦いの常法なり』、『百発百中の砲一門は百発一中の砲百門に勝る』と訓示していた。

 

そして決戦の作戦を想起したのが有名な秋山真之 作戦参謀である。決戦準備の山場となったのが、バルチック艦隊の進路予想である。海軍としては当然、敵がウラジオストクに逃げ込み補給を済ませる前にこれを叩き潰したい。

 

遅れに遅れていたバルチック艦隊は、明治38年(1905)5月16日、上海沖での目撃を最後に情報が途絶えた。敵が対馬海峡を通るのか、あるいは津軽海峡、宗谷海峡を通ってウラジオストクを目指すのか、最後まで意見が分かれた。バルチック艦隊は中々現れず海軍部は焦り、一時は津軽海峡への艦隊移動が決まりかけたが、東郷長官の決心により対馬での待機を決定した。

 

聯合艦隊司令長官 東郷 平八郎

作戦参謀 秋山 真之

 

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そして運命は日本に味方した。5月27日未明、哨戒中の仮装巡洋艦【信濃丸】がついにバルチック艦隊を発見。東郷長官は大本営に『敵艦見ユトノ警報ニ接シ 聯合艦隊ハ直チニ出動 之ヲ撃滅セントス』の暗号電文を打った。末尾に『本日天気晴朗ナレド波高シ』の平文電文が付け加えられたが、これは秋山作戦参謀がふと思いついて挿入したものである。『視界はいいが波が高いので砲撃が難しく、訓練の成果が問われる』との意味である。

 

周知のとおり、この戦いで聯合艦隊はロシアバルチック艦隊の19隻を撃沈、5隻を捕縛。日本の損失は水雷艇3隻のみであった。1805年のトラファルガー沖海戦を上回る大勝利は『パーフェクト・ゲーム』『東洋の奇蹟』として全世界から絶賛された。

 

この戦いで、『東郷ターン』と『丁字戦法』と共に東郷司令長官の名は全世界の尊敬と畏怖を集めた。日本でも東郷長官は乃木将軍と共に神格化され、伝説となった。しかし、近年の研究でこの『丁字戦法』はおこなわれなかったのではないか、との説も浮上している。要約すると丁字戦法は逃げる敵を追撃するには不十分な戦法であり、これは秘密兵器である連携機雷の存在を秘匿するために創作されたゴシップである、というものである。

 

ロジェストヴェンスキー中将は頭部に重傷を負い、捕虜となった。直ちに佐世保海軍病院に入院、衣食共に日本海軍の将官を上回る好待遇をうける。ここでも乃木将軍の水師営の会見の例と同じく、日本の武士道精神が発揮された。