日本の決戦準備

 

三国干渉以来、ロシアと対決する準備を進めた日本は、日英同盟を結ぶことができた。大国と軍事同盟を結ぶことは日本にとって願ってもないことであったが、これには北清事変(義和団の乱)で連合軍の中心的役割を果たした日本の功績が認められたことが幸いした。

 

イギリスはこれまで、何処の国とも同盟を結ぶ必要はないとする『栄光の孤立主義』を堅持してきたが、当時のイギリスは南アフリカにてボーア戦争を戦っており、自力で極東でのロシア南下を食い止めることが困難になった為である。これにドイツが仲介をする形で同盟が成立した。

 

 

※北清事変...1900年、中国(当時は清国)の結社である義和団が外国人を見境なく襲撃した事件。イギリスやフランスなど加え、日本もこれの鎮圧に関与した。

 

※ボーア戦争...1899~1902年までの間、イギリスが南アフリカを侵略し植民地とした戦争。(第2次ボーア戦争)

 

元老 伊藤博文

 

-----

 

これより以前から、日本はイギリスより戦艦6隻、装甲巡洋艦6隻を購入し六六艦隊を編成していた。日本の軍艦は主要12隻をはじめほとんどがイギリス製であったが、これは世界最高水準の海軍装備といえた。

 

陸軍は開戦当初、第一軍と第二軍、全部で12師団の編制であったが、戦時中には旅順攻略に加え第三軍を、遼陽会戦に備え第四軍を、奉天会戦に備え鴨緑江軍を追加し、全部で16師団となった。そして、現場の指揮に当たったのは満州軍司令部であるが、これは東京の参謀本部がそのまま名前を変えて戦線に乗り込んできたに等しかった。

 

すなわち、大山巌 参謀総長は総司令官として、児玉源太郎 参謀本部次長は総参謀長として、他の高級将校もほとんどがこの満州軍司令部に横滑りしてきた。まさに『敗戦=即亡国』という日本の覚悟のにじみ出た必勝の布陣である。

 

※参謀本部...日本陸軍の作戦計画立案組織

※目安として陸軍1師団は大体1万人前後と考えてよい。

 

 

児玉源太郎 参謀本部次長

 

大山巌 参謀総長

 

-----

 

そして、開戦の前後には外国と債務と支援を取り付けるために、アメリカには金子堅太郎を、イギリスには高橋是清を派遣。さらに、ロシアで既に気運を高めつつあった社会主義革命を扇動するため、明石元二郎 陸軍大佐を派遣した。

 

とはいえ、日露戦争は元老の伊藤博文をはじめ多くの官僚が勝利を見越していなかった。結局のところ日本は追い詰められて開戦に踏み切ったわけであるが、その準備は現代の政治家も舌を巻くほど周到なものであった。

 

 

 

ポーツマス講和会議

 

明治38(1905)年7月8日、外務大臣・小村寿太郎は桂太郎首相と共に、講和会議の地であるポーツマスへと向かった。新橋駅前に着くと、人々は歓呼の声でこれを送りだした。もちろん、小村は既に戦争が継続できないという日本の窮状を知らされており、低い声で桂に『帰国するときは人気は全く逆でしょうね』と語ったという。

 

日本が示す絶対条件として、『朝鮮からのロシア撤退』、『満州からの日露両軍の撤兵』、『ロシアの領有する旅順・大連などの租借権譲渡』の3つであり、『賠償金』や『樺太』に関しては全く優先されていなかったのである。

 

外務大臣 小村寿太郎

 

-----

 

8月15日、第4回目の会議で『樺太割譲』が取り上げられた。ロシアの全権、セルゲイ・ウィッテは『断じて同意しない』と拒否した。ロシアにはまだ戦争継続の余力があるという理由だった。小村が『あくまでも樺太割譲を要求する』と主張すると、ウィッテは『これ以上会議を続ける意味はない』と決裂をほのめかした。ロシア皇帝がウィッテに『会議を直ちに中止して帰国せよ』と指令したという情報も流れた。

 

すでに兵力も軍費も尽きた日本は、密かに重大な危機に立たされていたのである。8月26日、日本政府は『樺太も償金も諦めるしかない』との結論に達し、これを打電した。

8月28日の午後、暗号を解読した書記官らは悲壮に暮れた。しかしその夜、新たな電報が飛び込んできた。イギリスの駐ロシア大使からの情報として、ロシア皇帝が『樺太の南半分なら日本に譲る気持ちがないわけではない』と語ったという。29日、最後の会議で小村らはこの情報をもとに『賠償金の放棄』と『樺太の南半分の譲渡』で妥結に漕ぎつけた。

 

ロシア全権 セルゲイ・ウィッテ

 

ロシア皇帝 ニコライ2世

 

-----

 

こうして講和は成立した。賠償金を放棄するという日本の態度は、結果的に世界の目には紳士的なものとして映し出され、多くの賞賛を得た。また、この交渉を仲介したアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトはのちにノーベル平和賞を受賞した。

 

しかし、日本国内での反応は真逆のものであった。新聞各紙は『この屈辱』『あえて閣臣元老の責任を問う』などとロシアに屈した軟弱外交を責め立てた。日露戦争は、日本はもう戦えないという情報をひた隠しにしての極限状態で得た勝利ではあったが、国民はそのことを知る由もなかったのである。

 

-----

 

かくして交渉への出発前に小村が予想した通りの光景が現実となった。9月5日の調印当日、日比谷公園広場で講和反対の国民大会が開かれ、3万人もの参加者が暴徒と化して、市内の200以上もの派出所が焼き払われた。小村の家族の住む外相官邸も放火され、群衆が門の内部にまで入り込んだが、近衛師団が駆けつけてこれを排除した。これが『日比谷焼き討ち事件』であり、日本政府は国内に戒厳令を布いてまで火消しに終われた。

 

小村は会議の終了後、突如の高熱に見舞われた。緊張の糸が切れ、国家存亡という重圧が一気に小村にのしかかったのかもしれない。小村はなんとか小康状態を取り戻し、ふらつく足で10月17日、新橋駅に帰着した。一般乗客は遠ざけられ、プラットフォームは一触即発の状況であった。

桂首相らが迎えに出て、小村を守るように出口に進んだ。内閣が共同で重責に耐え、万が一の時には共に傷つく覚悟を象徴した出来事であった。

 

※戒厳令...本来警察がおこなう国内の治安維持を、軍隊が実施すること

 

首相 桂太郎