日露戦争勝利後の日本

 

 

日露戦争に勝利し、列強国の仲間入りを果たした日本は、1911年にアメリカとの通商航海条約などで関税自主権を回復し、いわゆる「不平等条約」を実に半世紀ぶりに解消させた。日本人の自尊心は向上したが、満州国内では日本人を一等国民、朝鮮人を二等国民、満州人を三等国民とするなど明け透けな民族主義を掲げ、今日にも多くの禍根を残している。

 

日本人はかろうじて日露戦争に勝利したが、その勝利からも謙虚に学び、将来への教訓とする意識がややも希薄であったことが今日での反省である。

 

※日露戦争...1904年2月5日~1905年9月5日の間に起きた、日本とロシアの戦争。公的には日本の勝利という形で戦争は終結した。

 

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戦争が終わり、日本は多大な債務を抱えていたが、軍部は軍縮どころかさらなる軍拡にひた走ることとなった。陸軍は依然としてロシアの脅威に備えなければならなかったし、海軍ではイギリスより始まった新型艦の建造競争の後を追わなければならなくなった。戦後たったの2年で、陸軍は仮想敵国のトップにロシアを、海軍はなんとアメリカを掲げた。

 

陸軍は平時で25個の師団を50にまで増強する計画を立てた。ロシアの戦略に備えるのであれば、確かにこれは数が多すぎる。陸軍は満州全土を支配せんとする領土的野心を次第にむき出しにしていくのである。後に日本が建国する満州国はその発露であると言えるが、これに関しては治安貢献という側面から肯定的に捉える意見も少なくない。

 

海軍では八八艦隊の建設や、イギリスのドレッド級戦艦、オライオン級戦艦(超弩級戦艦)の競合の為に、いたずらに財政を圧迫することとなった。日本海海戦の完璧なまでの勝利は、艦隊決戦主義を不動のものとし、大艦巨砲主義時代の幕開けを告げ、全世界の海軍戦術や艦艇政策に多大な影響を及ぼした。

 

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大艦巨砲主義の体現として日米戦争の開始前後に建造されたのが【大和】と【武蔵】の超戦艦であるが、この建造を主張したのはのちの軍令部総長、永野修身である。彼は日本海海戦では大尉として巡洋艦【浪速】から戦隊副官として戦闘経過を見守り続けていた。

 

一方で、これに反対したのが後の聯合艦隊司令長官、山本五十六である。彼は日本海海戦では少尉候補生として装甲巡洋艦【日進】にて参戦した。そこで左手の指二本を喪失、右脚の肉をえぐられるという重傷を負う。

 

左:山本五十六 右:永野修身

 

※軍令部...陸軍における参謀本部にあたる、日本海軍の計画立案組織

 

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永野修身はアメリカ戦艦はパナマ運河の通過を想定して大きさを制限しながら建造しなければならないが、日本が更に大きな戦艦を造ればそれをアウトレンジから砲撃できると考えていた。

対して山本五十六はいち早く航空機優勢時代の到来を捉え、周囲の反対を押し切って航空機による真珠湾攻撃を提案した。また、最後まで対アメリカ開戦に反対したのも山本五十六である。

 

日露戦争の後、戦勝の栄光に包まれた永野修身と、負傷による将来の不安と共に過ごした山本であるが、この体験が後の二人の決戦思想にも決定的違いとなって表れた。

しかし山本の意見はやがて海軍部の中での『伝統』と共に押し切られ、そしてミッドウェーでの大敗へと繋がるのである。

 

 

戦費の調達、米英の協力

 

日露戦争より以前、日本は三国干渉から10年間で師団数を2倍にし、新鋭戦艦6隻、新鋭巡洋艦6隻からなる、いわゆる『六六艦隊』を築き、国家予算に占める軍事費は4割に達していた。

 

日露戦争で日本は18億2600万円、通常の国家予算の8倍にあたる金額を消費した。これらの費用は、主に増税と債務によって捻出された。債務の中身は外国債が8億円、内国債が6億7200万円である。様々な税率が引き上げられ、記憶に新しいタバコと塩の専売も、この時に始まったものである。

 

内債には戦時中に5回に分けて募集が成されたが、そのことごとくに3~5倍もの応募が集中した。中には半ば強引に役人が取り立てたものもあり、募集が履行できない者も現れたが、概ね当時の国民の連帯意識というのは一途に憂国的なものであった。

 

※三国干渉...1895年にロシア、ドイツ、フランスが共同し日本の遼東半島撤退を迫った出来事

※国債...政府が主に国民に対して行う借金のこと

 

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外債の獲得に活躍したのが、日本銀行の副総裁・高橋是清である。彼は横浜償金銀行の支配人時代に外国銀行に頼らず独自の為替相場を打ち立ててセールスを展開し、為替決済の大手顧客を次々に獲得していた凄腕であった。彼はのちの1920年より内閣総理大臣となり、2.26事件で暗殺されるまでに7度の蔵相就任を果たした。

 

日露戦争直前、高橋是清はイギリスに派遣されたが、そこで装甲巡洋艦【春日】と【日進】の購入に際して在英公使の名義で手形を切らせるなどの手腕を発揮した。しかし、いざ戦争が始まり、公債の募集となるとそうはいかなかった。いくら日本とイギリスが同盟国であるとはいえ、ロシアと戦争をして日本が勝つと考えていた外国人は圧倒的に少なかったからである。

 

ところが1904年5月、ロシア軍が日本軍に押されていることが判明すると500万ポンドの公債発行が決まった。このとき高橋是清は税関管理人の査察を拒否し、次のように言った。

『我々を清国と一緒にするな。我々は債務に関して一銭も利払いを怠ったことはない』

 

その後、偶然に呼ばれた晩さん会で知り合ったアメリカのクーン・ロエプ商会の主席代表から500万ポンドの申出があった。これを皮切りに第1回の外国債1000万ポンドが出そろい、そのまま戦況の進捗と共に全部で6回、総計1億3000万ポンドの外債を獲得することに成功した。

 

※清国...日露戦争当時、中国大陸にあった満州族の王朝。中国最後の王朝として知られる。

 

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この成功には、イギリスだけでなく主にアメリカの支援もあった。アメリカでの親日的な世論獲得に貢献したのは、アメリカに留学し、帰国後は明治憲法を起草した金子堅太郎であった。彼はセオドア・ルーズベルト大統領の大学での同期生であり、その後のポーツマス講和会議を開くためにルーズベルト大統領の協力を取り付けた人物である。また、その会談での日本全権・小村寿太郎も同じくハーバード大学の出身である。

 

金子堅太郎は戦争中に外交官としての手腕を発揮し、『日本が勝つという見込みがあるわけではないが、日本民族は皆、国の存亡を賭けて戦っている』とアメリカ世論に訴え続け、政界、財界を動かしていったのである。

 

第26代アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルト