GHQ統治
連合国統治領(占領時代)・日本の旗
日本の民主主義政治は決してアメリカから与えられたものではない。日本は戦時中にも民主的な政権交代を起こし、政権を担当したのは既存政党のセクト(分派)であったため大政翼賛会は実権を握ることができず、治安維持法の最高刑が死刑に引き上げられたものの死刑が適用されたものは1人もいない。
そもそも、日本の軍部政治を解体し民主主義をもたらしたのがGHQであるならば、マッカーサーもまた軍人であることに、決定的な矛盾が生じる。
大日本帝国は効率的に戦争を遂行できる政治形態を取っていたが、現在プロレスラーでさえ立候補できるような議会制民主主義は、豊富な国力があって初めて実現できる機能である。
民主主義の原動力は、所詮カネである。ソ連はそれを見誤ったために政治腐敗の横行する人治国家と成り果て、アメリカは同じ失敗をイラクで繰り返した。
日本が敗戦し、その領土であった土地は全て戦勝国のものとなった。とりわけ、朝鮮半島は米ソ双方が統治権を主張して分断され、沖縄は1967年までアメリカ領となり、一時は北海道さえもソ連との分断の危機にあった。それはあたかも、大航海時代のアジア・アフリカの植民地争いの再現であった。
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日本を占領したGHQは、日本人の精神を解体し、日本人の牙を抜くことに精力を挙げた。憲法9条はもちろんのこと、治安維持法・政治犯釈放・特高警察の廃止、新聞の検閲、財閥の解体、天皇人間宣言、農地改革、軍国主義者の職務追放、内務省解体などは全て、この一環である。
しかし、NATO結成、朝鮮戦争勃発はそれらの政策を転換させた。警察予備隊の結成、日米安保条約の調印により、日本は『平和主義の象徴』などではなくアメリカの『共産主義との戦い』のための『不沈空母』へと変えられた。
皮肉なことに、アメリカと戦う前の日本の敵であったはずのソ連や中国を相手に、今度は戦争に勝ったアメリカが戦いを強いられたのである。そればかりか、アメリカが支援していた中国国民党は内戦に負けて台湾へ逃亡し、アメリカには何の利益も残らなかった。むしろ漁夫の利を得たのは中国共産党とソ連である。
アメリカはさらにベトナム戦争、中東戦争へと利益にならない戦争へと引きずり込まれる。それはもちろん、記憶に新しい9.11テロ、イラク戦争へと密接にリンクしている。アメリカのハル・ノートが引き起こし、アメリカが勝利した戦争は、アメリカにとって何一つ国益を生んでいないのである。
※NATO...北大西洋条約機構。アメリカ、イギリス、フランス、西ドイツなどを中心に、冷戦期の西側軍事同盟として結成された
※ハルノート...昭和16年末、アメリカが日本に交付した要求。日本が開戦に踏み切った理由とされる
東京裁判
極東国際軍事裁判、いわゆる東京裁判をはじめ、日本に対し戦後行われた軍事裁判は『平和に対する罪』『人道に対する罪』など勝手に新たな罪状を作り出して裁いた点、日米戦争のみならず、日露戦争にわたる過去にまで遡及した点、戦勝国が自国の戦争犯罪は不問にして敗戦国のみを裁いた点、弁護側に証人喚問の機会は与えられず証言書をそのまま証拠として採用した点などから、およそ裁判の名に値しない政治ショーであったことは今日の法学会で広く知られている。
東京裁判ではA級戦争犯罪(平和に対する罪)を主な罪状とする容疑者が裁かれた。その過程で、数々の近代法を度外視した側面は、現場でも自己矛盾となって現れている。
弁護人、清瀬一郎が『ウェッブ裁判長は戦時中にオーストラリア戦犯調査団員としてニューギニアのおけるB・C級戦犯を調べた。そのような人物が裁判長席に座るのは適当ではない』と同義を申し立てたとき、突然15分の休憩を挟み、その後ノース・クロフト判事(ニュージーランド)が『当裁判所の裁判官は、連合国総司令官マッカーサー元帥により任命されたものであるから、どの裁判官も欠席させるわけにはいかない』と答えた。
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ウェッブ裁判長は弁護団の動議を却下し、『理由は後日これを述べるであろう』としたが、却下理由は東京裁判が終了しても明らかにされなかった。この場での苦しい対応を迫られた判事もある意味では被害者かもしれない。
以下に紹介するのは東京裁判の根幹を握った人物たちのその後の見解である。
マッカーサー元帥 アメリカ議会上院軍事外交合同委員会にて
『日本は絹産業以外には、固有の産物はほとんど何も無いのです。彼らは綿が無い、羊毛が無い、石油の算出が無い、錫が無い、ゴムが無い。その他実に多くの原料が欠如している。そしてそれら一切のものが、アジアの海域には存在していたのです。
もしこれらの原料の供給を断ち切られたら、1000万から1200万の失業者が発生するであろうことを彼らは恐れていました。したがって、彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです。』
ウェッブ裁判長 ディヴィッド・バーガミニ著『天皇の陰謀』序文
『私が東京で判事席に座っていた30か月の間に、私は証人たちの日本君主に対する懸念と崇敬の念と、天皇の立場を説明する際の熱心さと厳正さにしばしば打たれた。私は日本が1941年に戦争に訴えたことを非難するいかなる権利を持っているのかと自問することが時折あった。
私は日本が9000万人の住む小さな土地で耕作できる面積はそのうち15%に過ぎず、外部から激しい貿易制限や規制を受けていたとの弁護士の論述に多くの正論と酌量の余地を認めた。
私はアメリカなりイギリスが同じような状況に置かれたらどのように反応したか。それどころか国民がどのような反応をすることを望んだかを考えてみた。アメリカもイギリスも、日本が1941年に置かれたような状況になれば、戦争に訴えていたかもしれないのである。』
ウィリアム・ウェブ裁判長
キーナン首席検事 第一出典不明
『東京裁判はいくつかの重大な誤判を含むのみならず、全体として復讐の感情に駆られた、公正ならざる裁判であった』
パール判事
東京裁判に参加した11か国の判事で、国際法の学位を持っていたのはインドのラダ・ビノード・パール博士たった1人であった。
東京裁判の内容に激高したパール判事は、開廷期間の約2年半の間、ただ1人帝国ホテルの1室に閉じこもり3千巻にもおよぶ文献を調べあげ、原稿用紙にして2200枚、90万語に及ぶ膨大な判決書を書いた。
博士が唯一判決書の執筆を中断したのは、夫人危篤の知らせを受け急遽帰国したときだけであったという。病床で『どうか裁判が終わるまで私のことは構わないで』と述べる夫人に対し、博士は『日本は美しい国だ。人情も景色も美しい。裁判が終わったら、一緒に日本へ行こう。』と言い残して、日本に戻った。しかし裁判が終わった5か月後、夫人は床に臥したまま日本の地を踏むことなく息を引き取った。
しかし、ようやく完成した判決書はGHQによって公刊を禁じられ、ようやくインドのカルカッタで出版されたのは昭和32年になってからのことだった。こうして、パール判決文は一切の陽の目を見ることのないまま、A級戦犯7名の絞首刑は下されてしまった。
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全被告無罪の判決を下したパール博士が、昭和27年に日本側の招きで再来日した時のことである。羽田に降り立った博士は、待ち構えていた記者団に対し、開口一番次のように言った。
『この度の極東国際軍事裁判の最大の犠牲は【法の真理】である。勝ったがゆえに正義で、負けたがゆえに罪悪であるというなら、もはやそこに正義も法律も真理もない。力による暴力の優越だけが全てを決定する社会に、信頼も平和もあろうはずはない。
今後も世界に戦争は絶えることはないであろう。しかして、そのたびに国際法は弊履のごとく破られるだろう。だが、爾今、国際軍事裁判所は開かれることなく、世界は国際的無法社会に突入する。その責任はニュルンベルクと東京で開いた連合国の国際法を無視した復讐裁判の結果であることを、我々は忘れてはならない。』
博士の予言は的中した。その後の朝鮮戦争、ベトナム戦争、中東戦争、湾岸戦争と、いずれも戦争裁判は開かれていない。
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また、広島の原爆慰霊碑を訪れたパール博士は、そこに刻まれた【過ちは繰り返しません】という文字を見て、次のように語ったと伝えられている。
『東京裁判で何もかも日本が悪かったとする戦時宣伝のデマゴーグが、これほどまでに日本人の魂を奪ってしまったとは思わなかった。東京裁判の影響は、原子爆弾の被害より甚大である。』
パール博士は1967年に他界したが、最期のときまで『日本の子供たちが罪悪感を背負って卑屈、退廃に流れていくのを見過ごすことはできない』と東京裁判の影響を憂い続けたという。『日本人よ、日本人に帰れ』と訴え続け、彼は故国インドにて82年の生涯を閉じた。
現在のアジア
日本は現在でもアジア各国から戦争責任を追及されているというのは大きな誤解である。靖国神社問題にしても、首相の参拝に国として反対しているのは実は中国、韓国、北朝鮮のみで、まれに東南アジア諸国から市民団体レベルの抗議が来るが、これらのほとんどは華僑系の団体である。
ここに興味深い調査がある。
【戦後50周年アンケート】(1995年読売新聞の世論調査)
『第2次世界大戦中におこなった行為は、今でも日本との関係発展を妨げているか?』
≪妨げている≫
・韓国 71%
・中国 49%
・タイ 36%
・マレーシア 25%
・ベトナム 13%
・インドネシア 12%
『日本に対して良いイメージを持っている』
・ベトナム 95%
・マレーシア 94%
・タイ 80%
・インドネシア 72%
・中国 53%
・韓国 30%
このような事実を知らずに各国を旅行すると、国内での印象との違いに戸惑うだろう。
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平成6年8月、社会党の村山首相は訪問先のフィリピンで、戦争責任問題について謝罪した。ところが、同席したマレーシアのマハティール首相は村山にこう切り返した。
『日本が50年前に起きたことを謝り続けるのは理解できない。過去のことは教訓とすべきだが、将来に向かって進むべきだ。日本はこれからアジアの平和と安定のために国連安保理常任理事国入りして、すべての責任を果たしてほしい。
日本は国際貿易で膨大な利益を上げながら半世紀前の戦争への反省を口実にODAをばらまくだけで、世界の安定に対して何ら貢献もせずにいる日本は世界に対する責任を果たしていない。』
現在もなお、アジアの経済大国 日本はその役割を間断なく問われ続けている。それは決して、過去への反省やお詫びなどでは断じてない。
対中との軍事緊張、チベットやウイグルの民族浄化、イスラエル問題、ネパールの毛派テロ、インドの人口爆発、インドとパキスタンの核緊張。日本が国際的な発言力でもって積極的に打開策を提案することを、アジアの国々から期待されているのだということを忘れてはならない。