インド (旧大英帝国)
上:イギリス領インド帝国の国旗、下:現インド(インド共和国)国旗
インドは17世紀初めよりヨーロッパの度重なる侵略によってムガール王朝が滅ぼされ、イギリスの植民地となる。過酷な略奪的搾取により、18世紀にベンガル地方で1000万人、19世紀には南インドで1500万人が犠牲になったとされる。
1941年、日本の開戦とともにインド人の独立運動家たちは『インド独立連盟』を東京で旗揚げし、翌年には東南アジア各地に散らばっていたインド独立運動家を集め、日本はインド独立闘争の拠点となった。
日本政府はインド独立を全面的に支援するため藤原岩市 少佐を中心とした十名足らずの『F機関』を設置、藤原機関長は占領したマレー半島の治安維持を捕虜のインド人兵士に任せるなど、イギリス人の支配とは一線を画した対応でインド人兵士の信頼を勝ち得た。
降伏してきたインド人兵士たちは、率先して日本軍の先頭に立ち、次々と同胞に降伏を呼び掛け、最終的には5万人というインド兵がイギリス軍を裏切って投降した。
わずか3万名ほどの日本軍が、10万名のイギリス軍を相手に上陸後わずか55日目でマレー半島を制圧できたのは、このような背景がある。
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こうしてインド人1万5千人による『インド国民軍(INA)』が誕生し、最高司令官にはスバス・チャンドラ・ボースが立った。『チェロ・デリー!(進め、デリーへ!)』を合言葉に、兵士のみならずインド民衆の心をも掌握した。
しかし、日本軍はインド独立工作【インパール作戦】に失敗。1945年8月15日に連合軍に対し降伏した。さらに2日後、チャンドラ・ボースが飛行機事故で死亡してしまう。残されたインド国民軍の将兵1万9500名は『反逆罪』で軍事裁判にかけられることとなった。
しかし、これがインド全土の民衆を憤慨させた。拘留されていた国民軍兵士たちの監獄からは『チェロ・デリー!』の声が毎日のように響き渡り、民衆も『愛国の英雄を救え!』『INA全員を即時釈放せよ!』と叫びながら監獄に向かってデモ行進をおこない、監獄の内と外で『チェロ・デリー!』の大合唱が響き渡った。
そして1947年5月、ついにイギリスは軍事裁判の中止を決定。8月にはインド独立を承認した。
スバス・チャンドラ・ボース
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こうしてインド独立が実現したのは、日本敗戦からちょうど2年後の1947年8月15日のことである。だがこのとき、分離独立したパキスタンのイスラム教徒との間に起った武力紛争で、100万人近い人命が失われている。
ところで、インド独立といえば日本ではむしろ"独立の父"ガンジーが有名である。彼はイギリスに留学し、『非暴力』の思想を掲げて国内を歴訪した平和主義者である。インド国会議事堂にはこのガンジーと、初代大統領ネルーの肖像画が掲げられているが、さらにその上にもう1人の肖像画が掲げられている。それがチャンドラ・ボースである。
実は、ガンジー自身は独立運動そのものにはほとんど関与していない。彼自身はそのときヒンドゥー教徒とイスラム教徒の衝突回避に奔走していたが、残念なことにほとんど実を結ばなかったのである。ではなぜ日本の歴史教科書にはチャンドラ・ボースが登場しないのか。それはご想像にお任せする。
1951年、インドはサンフランシスコ講和会議への参加を拒否した。それは、連合国側の一方的な条約への反発であり、日本に対する賠償請求の放棄を決定した。それどころか、インド独立運動家マハンドラ・プラタップは『日本に対してこそ、賠償を払うべきだ』という『逆賠償論』を主張している。
※サンフランシスコ講和会議....日本と連合国(おもにアメリカ、イギリス、フランスなど)の間で結ばれた戦後平和条約
マハトマ・ガンジー
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フィリピン (旧アメリカ領)
上:アメリカ領時代のフィリピン国旗。下:現フィリピン(フィリピン共和国国旗)
フィリピンは16世紀にマゼランの世界一周の航海途中でスペイン人に発見され、スペイン皇太子のフェリペにちなんで、島々を『Filipinas』と命名された。その後、国王となったフェリペ2世により、フィリピンはスペインの植民地となる。
奴隷貿易の拡大によって農産物の需要が高まり、大規模な農場経営が進み、スペイン系や華人系のメスティーソ(混血)が大地主となった。
1898年、スペインとアメリカは米西戦争を戦う。アギナルドはアメリカの協力のもとで独立を宣言。しかし、パリ条約でスペインはフィリピン領有権をアメリカに譲渡。フィリピン革命政府は激しく反発し、米比戦争が勃発したが、翌年敗北した。
アメリカはフィリピンのような直接統治は行わず、民政によりアメリカ経済圏にフィリピンを統合していった。1907年にフィリピン議会が発足。国会はフィリピン人による二院制となる。
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第1次世界大戦後、フィリピンの独立要求が活発化し、1933年にタイディングス・マクダフィー法案が可決。『1946年7月4日に独立を宣言し共和国とする』と定められた。
1941年、日本の開戦により日本軍はフィリピンに進軍。1943年6月、帝国議会で東条英機 首相は、年内のフィリピン独立を明言。独立準備委員会のラウレルが大統領に選出され、フィリピン共和国が発足した。
戦時中、フィリピン人は主に米軍の爆撃により150万人の死者を出した。しかし、独立は果たしたが軍政下でもあり経済政策は思うように成果が上がらず、フィリピン人の生活は窮乏し、さらにアメリカとの交易で利益を得ていた華僑を中心とする抗日ゲリラの活動が活発化した。1944年10月、マッカーサーはレイテ島に逆上陸。1945年8月に日本は降伏した。
※華僑...端的に言えば中国人のこと。
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1946年2月、リベラル党ロハスが初代大統領に就任し、タイディングス・マクダフィー法案で定められた期日の7月4日、ロハスは第1代大統領に就任して独立を宣言。フィリピン共和国が誕生した。
しかし、政治、経済の両面でアメリカに依存する状態がしばらく続くことになる。軍事的には軍事基地協定および軍事援助協定、相互防衛条約が締結され、実態はアメリカ統治時代と大差はなかった。
1950年は不正選挙や政治腐敗も横行。共産勢力の運動が活発化し、反米ナショナリズムが台頭する。1960年代に入ると、ベトナム戦争を背景に学生運動が激化。反米デモが繰り返された。ミンダナオ島でイスラム分離独立運動がおこり、武力衝突にまで発展した。さらに、マルコス大統領が終身大統領を画策して憲法を制定、戒厳令を布き議会を停止、政敵を一斉逮捕するなどの恐怖独裁を展開、不正選挙で再選を重ねた。
しかし、アメリカに亡命していたベニグノ・アキノが暗殺されるという事件を発端に、大体的な反マルコス運動が展開され、ついにマルコスはハワイへ逃亡。代わって故ベニグノ・アキノの夫人コラソン・アキノが大統領に就任した。一連の事件は2月革命と呼ばれる。
日本の対米戦争によって首都のマニラは焼け野原となったが、現在のフィリピンには親日的なムードがあるという。NHK調査では『日本による戦争被害に今も憤りを感じるか』という項目に、フィリピンでは『感じる』が20%、『日本はフィリピンの戦争被害に対して反省しているか』は60%が肯定的な回答であった。
マニュエル・ロハス