ラオス(旧フランス領インドシナ)

上:ラオス王国の国旗、下:現ラオス(ラオス人民民主共和国)国旗

 

ラオスはベトナムとカンボジアと共に、フランス領インドシナの一部だった。

1945年3月、日本軍はラオスに進出。フランス軍を駆逐し、シー・サヴォン・ウォン国王は全ラオスの独立を宣言した。

 

戦後、フランスは南部から再征服を開始。これに対しラオ・イサラ(自由ラオス)臨時政府が抵抗するもバンコクに追い詰められ、亡命政府となる。フランスは、シー・サヴォン・ウォン国王を懐柔して王国政府を樹立させた。これに対しスパヌ・ヴォンらが1950年に『ネオ・ラーオ・イッサラ』(ラオス自由戦線)を結成し臨時抗戦政府を樹立。

 

フランスは次第に王国維持に困難をきたし、1953年、ついにラオスの植民地支配を断念。独立を承認した。

 

その後、ラオス国土は山岳部のパテト・ラオ支配地区と、王党派の支配地区の2つに分裂した。アメリカがフランスに代わり多額の援助金で王国政府を懐柔したのと、ソ連や北ベトナムがパテト・ラオで『解放区』の建設を進めたためである。

 

1975年にパテト・ラオが政権を奪い、12月にワッタナ王らは政権を追われ、ラオ人民革命党の一党支配による社会主義国、ラオ人民民主共和国が樹立された。

 

 

カンボジア(旧フランス領インドシナ)

 

カンボジアもラオス、ベトナムとともにフランス領インドシナの一部だった。

カンボジアへの自衛隊のPKOは記憶に新しいが、それはカンボジア内戦が国連仲介で収束するまで、1990年代に及んでまで続けられたことによる。

 

1940年からの日本軍進駐を受けて、ノドロム・シアヌーク王は3月12日にカンボジア独立を宣言。しかし、日本の降伏と同時に再びフランスの保護下に戻り、独立は消滅してしまう。

 

しかし、ノドロム・シアヌーク王は粘り強く独立運動を続けた。1949年にベトナムの第一次インドシナ戦争でフランス軍が劣勢に転じ、フランス連合内で独立を獲得した。1953年には警察権、軍事権を回復し、完全な独立を果たす。

 

シアヌーク国王は北ベトナムへの爆撃を行うアメリカ合衆国と断交した。1970年3月、親米のロン・ノルがクーデターを起こしてシアヌーク一派を追放、翌4月にアメリカ軍をカンボジアに進駐させ、国民の不人気を買った。シアヌークは中国へ脱出したが、彼を助け、ともにカンボジアへ帰国したのが毛沢東主義に心酔したポル・ポト率いる『クメール・ルージュ』である。

 

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1970年10月、ポル・ポトはシアヌークを擁立してクメール共和国の樹立を宣言し、ロン・ノル政権との間で内戦となった。1971年にアメリカが軍事介入するも、1975年にロン・ノルは亡命した。

ベトナム戦争が終結するとクメール・ルージュは首都プノンペンに入城。カンボジアの国名を『民主カンプチア』に改称した。

 

クメール・ルージュは原始共産制を推し進め、都市住民を強制的に農村に入植させ強制労働を科した。この間に100万人を超えるともいわれる大虐殺が行われ、カンボジア国民の5人に1人が殺されるという近代史上最悪の虐殺劇となった。

 

1978年1月、国境紛争を理由にポル・ポトはベトナムと断交。ソ連と親密だったベトナムに対抗して中国に歩み寄り、中ソ対立構造に参加した。ベトナムはポル・ポト打倒を掲げ、亡命していたヘン・サムリンを首相に擁立して進出、1979年1月にポル・ポトらをタイ国境近くまで駆逐した。

 

ヘン・サムリン政権はその後もポル・ポト派と内戦を戦った。1979年2月、中国とベトナムの間で戦争が起こり(中越戦争)、内戦はさらに国王派など2派を含んだ複雑なものとなった。

 

クメール・ルージュに虐殺された犠牲者の頭蓋骨。トゥール・スレン虐殺博物館に展示されている。

 

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1982年7月、反ベトナム3派の連合政府、民主カンボジアが成立。1983年2月にインドシナ3国首脳会談でベトナム軍の部分的撤退が決議されたが駐留ベトナム軍はカンボジアの内戦に介入し続け、1985年3月にシアヌーク国王派の拠点を制圧した。1988年3月ベトナム首相ファン・フンが急死すると、同年9月にベトナム軍は撤収した。結果、フン・セン政権は弱体化し、内戦は泥沼化することとなった。

 

1992年3月、国連による国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)が平和維持活動を始め、1993年9月、ノドロム・シアヌークが国王に再び即位。1998年には山中でポル・ポトの死が確認された。

 

1999年4月、カンボジアは遅れていた東南アジア諸国連合(ASEAN)への加盟を果たした。

 

 

マレーシア(マレー連邦、旧大英帝国)

 

日本軍の敗戦で、日本が占領していたマレー半島に再びイギリス軍が戻ってきた。しかし、マレーは他国と同様、日本軍による占領時代に独立の気運が育っていた。

 

これを感じ取ったイギリスは将来マレーの独立を認めたとしても、経済的利権は守り通そうと『マレー連合構想』を提案した。共産革命を阻止して治安を維持すること、マレーに住む『マレー人』『華僑』『インド人』の3民族に平等な権利を与えることを謳ったものである。この提案に対し、マレー人高級官僚・貴族階級を中心に強い反発が起こり、ダトオンビンジャワファルらによって連合マレー人国民組織(UMNO)が結成された。UMNOの要求はある程度受け入れられ、イギリスのマレー連合構想は廃案に追い込まれた。

 

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1948年、マレー諸島は再植民地化を免れ、イギリスの保護を受ける独立国ということになり、『マレー連邦』が結成された。これに対し、マレー共産党はあくまでイギリスの影響力を排除しようとして武装蜂起、UMNOをはじめ連邦政府は『非常事態宣言』を出してマレー共産党を非合法化し、これに対抗した。

 

共産党のゲリラ作戦は、イギリス軍による『新しい村』政策などで徐々に力を失い、やがて1960年に鎮圧されたが、12年もの長きに渡ったこの戦いで失われた人命は合計1万人以上を数えた。

 

1951年、トゥンク・アブドゥル・ラーマンがUMNO総裁となり、独立を勝ち取るためにはマレーに住む3民族の結束が不可欠であるとしてこれに尽力し、1955年に3つの政党からなる連合党が結成された。

 

独立を望む国民の圧倒的支持を受けた連合党は翌年1月、ムルデカ使節団をロンドンに直接送り込み、イギリスと交渉を開始。度重なる交渉を経て、1957年8月31日、クアラルンプールで記念式典が開かれ、ラーマンによってマレー連邦の独立を宣言。ラーマンは初代首相に就任し、ついに完全な独立を勝ち取った。