ビルマ(現ミャンマー)
ビルマは1886年にイギリスの植民地とされ、インドの一州に組み込まれた。王族一家をはじめアラウンバヤー王朝最後の皇子は処刑されてしまう。その時、彼は以下の言葉を残した。
『いつか必ずボモージョ(雷帝)となり、白馬にまたがり東の方角からやってくる。そして英国の支配からビルマを解放するだろう』
対米開戦前、日本は援蒋ビルマルートを断ち切るためにビルマ独立を画策する。昭和15年、鈴木敬司 陸軍大佐はビルマの独立運動家ウォン・サンら、タキン党の青年たちを英国の弾圧から救い出し、大佐の故郷である浜松に亡命させる。
※援蒋ビルマルート...アメリカやイギリスが中国を援助するために設けた輸送路
このウォン・サンこそが、昨今ミャンマーの軍事政権に反対し自宅に軟禁されたノーベル平和賞受賞者スーチー女史の父親である。そして開戦直前の昭和16年2月、ビルマ独立工作機関として鈴木大佐を長とする【南機関】を設立。『ビルマ独立三十人の志士』に、中国の海南島で徹底した軍事訓練を施した。『南』とは鈴木大佐の偽名、『南益世』より命名されたものである。
訓練を受けるビルマ兵
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戦中、南機関はタイのバンコクで140名の精鋭からなる【ビルマ独立義勇軍(BIA)】を編成。日本軍のビルマ進撃と共にBIAへの志願者は増え続け、2万7千人にも達した。このときBIAの司令官だった鈴木大佐は、ウォン・サンの提案で純白のロンジー(ビルマ民族服)を着用して白馬に跨り、ビルマ民衆の前に登場した。ボモージョ伝説に肖ったものである。
ビルマ民衆は歓喜して義勇軍を迎え、その協力のもと僅か3か月で首都ラングーンを攻略、イギリス軍を敗走させた。そして1943年8月1日、ビルマはついに独立を宣言したのである。
しかし鈴木大佐の思惑とは裏腹に、大本営はビルマを日本の軍政下に置くことを決定。ビルマの早期独立を唱える鈴木大佐と大本営は次第に対立を深め、鈴木大佐は北海道へ左遷され南機関は解散のやむ無きに至った。これを嘆き悲しんだBIAは、肖像画と刀剣に添えて感謝状を贈った。
『我等はビルマ独立軍の父、ビルマ独立軍の庇護者、ビルマ独立軍の恩人のことを忘れない。たとえ世界が忘れるとも、我々の感謝の心が滅びることは無い』
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日本と同盟を結んでアメリカ、イギリスに宣戦布告したビルマも日本の敗戦が色濃くなってきた頃、日本と離れてイギリスと結ぶべきだとの声が高まる。それまで日本と共に戦ってきた三十人志士たちも動揺し、バー・モウ首相らはこれに反対の態度を取り、中には日本軍とともに自決する闘志もいた。
しかしウォン・サンは『反日に立つのは、ビルマを生き残らせるための唯一の方法である』としてバー・モウに書簡を書いてこれを説得し、昭和20年3月、ついに日本に反旗を翻した。この決断によって日本軍はビルマから撤退し、ビルマには再びイギリス軍が戻ってきた。
戦後、鈴木大佐(当時は昇進して少将)はB級戦犯としてラングーンへ送られイギリスの軍事裁判にかけられたが、BIAの猛反発で無罪となり帰国した。
その後、再び植民地支配を目指すイギリスに対してウォン・サンは、10万人の義勇軍を率いて徹底抗戦を開始。日本軍から受けた訓練の成果を遺憾なく発揮し、そしてついに、昭和23年1月4日、イギリスはビルマ独立を承認。ビルマはようやく独立を達成した。
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後にビルマ政府は南機関の鈴木大佐 以下7名の日本人に【ウォン・サン徴兵徽章】を進呈した。独立の勲功を称える最高勲章である。
そして現在。
ミャンマーでは3月27日の国軍記念日のパレードが開かれるが、それはいきなり日本の『軍艦マーチ』の演奏から幕を開ける。続いて【歩兵の本領】、『愛国行進曲』など日本の軍隊行進曲が次々に演奏される。ミャンマーが『日本人より日本を愛する国』と云われることを示す大きな一面である。
インドネシア(旧オランダ領東インド)
昭和17年3月1日、日本軍は今村均 中将の率いる『帝国陸軍ジャワ派遣第16軍』(通称 「治(おさむ)部隊」)、2個師団総勢5万5千人を擁してジャワ島に敵前上陸した。ジャワにはジョヨボヨの予言というものが伝わっていた。
『白人の支配は長く続くが、やがて北からやって来た小柄な黄色い人が白人を追い出し、ジャゴンの花の寿命の間、インドネシアを支配した後、ラトゥ・アディル(正義の神)の支配する祝福される治世がくる』
これが奏功し、ジャワ島は親日一色に染まり『治部隊』の2倍の兵力を擁していたオランダ軍を僅か9日で降伏させた。オランダによる350年の過酷な植民地支配はここに終結したのである。
現地の人々に歓迎された日本軍は、流刑されていたインドネシア独立運動家の指導者スカルノとハッタを救出して解放し、日本軍への協力を求めた。ちなみに、スカルノはあのデヴィ婦人の夫その人である。日本は軍政のもと『共存共栄』をスローガンに、インドネシア語の推進、青年達への軍事教練に貢献し、現地人の民族意識を高めた。しかし、戦局悪化に伴い食料の供出が増え、そこに飢饉が重なったため住民に多数の餓死者が生じた。
左:スカルノ。右:ハッタ
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インドネシアにとって『救世主』と映った今村中将だが、現地の軍政が『寛容すぎる』とされ大本営と対立、在任10か月目にしてジャワ軍司令を解任されてしまう。戦後、今村中将(当時は大将)は戦犯としてバダビアのチビナン監獄に収監され、死刑の危機にあった。部下らが次々に処刑されていく中、スカルノらが死刑寸前に今村将軍を奪還しようと計画したという。(結果的に、今村将軍は死刑執行寸前に釈放され、この奪還作戦は幻となった)
3年半の軍政期間ののち、日本が敗戦するとイギリス軍、オランダ軍がインドネシアを再占領するために戻ってきた。インドネシアは独立宣言の翌日、スカルノが大統領に、ハッタは副大統領に選任された。
インドネシア側は来たるべきオランダとの戦いのため、日本軍のもつ武器、弾薬を欲した。武器の引き渡しをめぐる日本側との交渉は決裂し、スマランでは日本人を軍民問わず人質にして100人以上を処刑するという事件が起こった。突入した日本部隊500名、インドネシア側2000名の死者を出している。
このスマラン事件には有名なエピソードがある。日本人が虐殺された監獄の壁に、血で書かれた文字があり、そこには片仮名でバハギア・インドネシア・ムルデカと読めた。その意味は、『インドネシア独立に栄光あれ』である。
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インドネシア独立戦争はイギリスやオランダの連合国を相手に4年間も続いた。中心となったのが、日本軍によって創設され鍛え上げられた祖国防衛義勇軍(通称PETA)であった。日本軍はあらゆる手段を用いて連合軍の目を盗み、彼らに大量の武器を渡した。また1千~2千名の日本兵がインドネシア独立軍に身を投じて共に戦い、その内およそ半数が命を落とした。日本兵は指導者的立場であったため、最前線に立ち、死亡する確率も高かったのである。
全体では死者80万人という犠牲を払いながらも、ついにオランダは再植民地化を断念。昭和24年2月、オランダのハーグにおける会議で独立が合意され、ここにPETAは独立戦争に勝利、インドネシア共和国が成立したのである。
この戦いに命を捧げた日本兵11名が、建国の英雄としてジャカルタ郊外のカリバタにある国立英雄墓地にて丁重に祀られている。
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かつてスカルノ大統領らは、来日のたびに独立戦争に参加した戦士たちに面会を求め、謝意を表してきた。スハルト大統領によって制定されたナラリア勲章も6名の日本人に授与されている。
戦後賠償問題に際し、交渉に当たったアルジ=カルタウイナタ国会議長はPETAの大団長だった人物でもあり、彼は岸信介首相に対して『独立のお祝いということで、賠償金800万ドルをください。日本が悪いことをしたから賠償しろというのではありません』と語ったという。
そして現在、インドネシア独立記念日では、民族衣装の男女2名に加え日本兵の服装をした1名の計3名で、国旗を掲揚するという慣習がのこっている。
ベトナム(旧フランス領インドシナ)
上:ベトナム民主共和国(現ベトナム社会主義共和国)国旗。下:ベトナム共和国国旗
ベトナム社会主義共和国は、今でこそ他に類を見ない親日国であるが、その成立過程は激烈を極めた。特に1970年代まではアメリカの軍事介入の加担者として悪い印象を持たれていた時期もある。
昭和15年9月26日、日本軍の仏印派遣軍が北部インドシナに進駐。その翌年、ホー・チ・ミン(当時はグエン・アイ・クオックと名乗っていた)は越南独立同盟(ベトミン)を結成した。彼は他国の独立闘志とは違い、ヨーロッパ、ソ連、中国を歴訪したソ連国際共産党(コミンテルン)のエージェントであり、ベトナム共産党の結成に尽力した人物で、日本に対し明確な敵意を抱いていた。
昭和19年12月22日、日本統治のもと、ベトナム武装解放宣伝隊が結成され、この日が人民軍創設日とされた。翌年、日本は本土がアメリカの大空襲を受ける中、3月6日にバオ・ダイ帝によるベトナム帝国の独立宣言が行われたが、彼にとって日本の影響は排除できるものでないため、全く無意味なものであった。
※仏印...フランス領インドシナのこと。現在のベトナム、ラオス、カンボジアにあたる。
ホー・チ・ミン
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日本敗戦の4日後、8月19日にベトミンが再占領を目論むフランス軍を相手に北部ベトナムで一斉蜂起、ハノイを占領した(8月革命)。日本の降伏調印の9月2日にホーチミン首席によるベトナム民主共和国の独立宣言が行われた。
翌年12月19日、ハノイでベトミン軍とフランス軍が衝突し、第一次インドシナ戦争が始まった。当初劣勢だったベトミン軍はソ連、中国の支援をうけ戦局を次第に挽回した。昭和24年6月14日、バオ・ダイ帝がベトナム(南部)の国家元首に就任、10月1日に中華人民共和国が成立すると、アメリカのフランス軍援助が本格化し、インドシナ戦争は単なる内戦でなく、東西冷戦の代理戦争の様を呈した。
昭和29年5月4日、フランス軍の拠点ディエンビエンフーが陥落してフランス敗北が決定的となり、同月8日にジュネーヴ会議が開かれ、7月20日にインドシナ休戦協定調印が実現した。
共産化の波を警戒したアメリカは南部への介入を強め、昭和30年10月23日、バオ・ダイが南部ベトナム元首の座を追放され、3日後にベトナム共和国(南ベトナム)が北緯17度線を境界として分離独立。アメリカの支援を受けたゴ・ディン・ジェムが初代首相に就任した。
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昭和34年1月13日、北ベトナム労働党は十五号決議により南部への武力介入を決定。翌年12月20日、タイニン省でベトナム解放民族戦線(ベトコン)が結成され、やがて宣戦布告がないまま第二次インドシナ戦争(ベトナム戦争)が始まった。
周知のとおり、この戦争は16年の長きに渡り、隣国のラオス、カンボジアまでもが巻き込まれ、100万人を超える死者と大量の難民を生んだ後に終結した。アメリカ軍は撤退し、南ベトナムは北部に組み込まれる形で崩壊。ベトナムはようやく統一を果たした。
ところがその僅か3か月後、カンボジアのポル・ポト派掃討に協力したことで中国の怒りを買い、その報復として今度は中国からの侵略をうける(中越戦争)。しかし戦闘経験豊富なベトナム人民軍は圧倒的な強さでこれを押し返した。
平成の世になり、ソ連崩壊に伴ってベトナムは『ドイ・モイ(刷新)』政策を発動。日本は1992年に455億円の円租借を供与。両国間で幅広い交流が進み、現在の関係に至るのである。