両シチリア王国。大戦争(第1次世界大戦)勃発時、イタリア半島に存在していた統一イタリア王国は、戦争前より同盟関係にあったドイツ帝国とオーストリア帝国側に与することはせず、中立を保ちました。やがて、領土問題を口実として同盟関係を反故にしてイギリス、フランス側の、協商陣営として大戦に介入しました。

 

しかしながら、アメリカ合衆国の厳正中立により協商陣営は劣勢を覆すことができず、1919年に実施されたドイツ帝国のミヒャエル作戦によりパリが包囲されたのち、ドイツ、オーストリアはイタリア戦線に対しても大規模攻勢を開始し、イタリア王国は降伏。その後、フランスも降伏し1921年、中央同盟国側の勝利により、大戦は終結しました。

 

そして、イタリアの裏切りに対するオーストリア帝国の怒りは強く、統一イタリア王国は分割されて崩壊。新たに親墺的なイタリア連邦が形成されました。しかしイタリア北部を中心に、内戦が勃発。オーストリア帝国はイタリアの秩序維持を反故にした結果、北部ではサルディーニャ・ピエモンテを中心に、フランスコミューンの支援を受けたイタリア社会主義共和国が建国。北部ヴェネツィアはオーストリアの保護を求め、イタリア共和国が成立し、南部はこれらに反した両シチリア王国が建国されています。

 

 

両シチリア王国はナポリを首都にし、ローマに居を据えるローマ教皇領を保護しています。北部の諸イタリア国家と比べ、どの国の影響もうけていない点で両シチリアは特筆すべきですが、もとよりイタリア王国時代から南部は未開発であり、その結果両シチリア王国の国力は小国の域を脱していません。

 

目標とするのは、いくつもの国家に分裂してしまったイタリア半島を再び統一すること。再度のリソルジメントです。

 

 

 

 

フランス・コミューンは、トラヴァイユール派、ソレリアン派などいくつもの派閥に分かれていますが、選挙でも決着がつかなかったようです。

 

オーストリア帝国、恐慌の影響を受け、保護下にあったイタリア共和国から撤兵し不介入の姿勢を明確にしました。その結果、イタリア共和国は後ろ盾となるものが消滅し、安全保障が大きく揺らいでいます。

 

 

恐慌は当然、両シチリア王国にも直撃し、最悪の状況にあるため、まずは経済立て直しが先決です。国家方針【メッツォジョールノの未来】を選択。経済政策を推進します。

 

ドイツの介入を受けて成立していた中国南部の南京軍閥、内乱により分裂。お家芸の内戦に突入しています。

 

両シチリア王国は立憲君主制の民主主義国家ですが、恐慌による経済不況により、国粋主義者が支持を伸ばしていきます。一方、ローマ教皇領ではコンクラーヴェの結果、ピウス12世が新たなローマ教皇となりました。

 

 

フランス・コミューンと双璧を成す社会主義国家、イギリス連合では新たに女性議長として会衆主義派のアニー・ケニーが就任しました。対するカナダ自治領にある亡命連合王国では、エドワード8世が国王に戴冠。

 

 

国家方針【経済危機への対処】を選択し、恐慌の影響を和らげていきます。

 

国内で増大する国粋主義に対抗するため、社会保守主派と社会自由派による自由派連立を形成することとします。あくまで立憲君主のもと、自由と民主主義を維持したまま、イタリアの統一を目指します。

 

 

国内の左派と右派の対立において、保守主義者の言を支持して労働総同盟の処罰を行うこととします。国内の安定度と引き換えに、社会保守主義の支持を伸ばすことができます。

 

ナポリ大司教の説教により、社会自由主義勢力が焚きつけられる。社会保守主義に次いで、支持を集めています。

 

北部のイタリア社会主義共和国にてムッソリーニ率いるナショナリスト連合が多数派となる。

 

不穏な雰囲気のアメリカ合衆国でフーバーに代わり、ジョン・N・ガーナーが大統領に就任。アメリカ第1党と社会党への妥協なき対決姿勢を強めています。