ナポレオン6世が率いる、新生フランス帝国。かつて大戦略家のナポレオン1世の時代と同じように、グラン・ダルメの再建と全欧州の支配を目指します。

 

 

 

ルーマニア王国にて、民衆の支持を失っていたカロル2世が退位。新たにミハイ1世が即位し、フランス連合への加盟を申し出てきました。これにより、対枢軸に新たな戦線が構築されドイツ軍の分散を促進させています。

 

 

脆弱なイタリアに一気に進軍し、ドイツとの陸上交通路を分断。包囲殲滅し一挙にローマを占領します。イタリアは両シチリア島に撤退し抵抗をつづけましたが、140万人の死傷者を出してあえなく降伏。

 

 

ドイツ、東部戦線をようやく片付けました。しかしながらフランス連合および連合国も、対イタリア戦線が消滅したため、イタリアに振っていた戦力を含め、全戦力を対ドイツに振ります。

 

ベルリンを占領し、ライヒスタークにフランス国旗が翻ります。ナチスドイツは230万の損害を被り無条件降伏。フランス帝国は、かつての第二帝政時代での、普仏戦争におけるセダンの復讐を果たしています。

 

一方でアメリカ合衆国、1940年大統領選挙でウェンデル・ウィルキーが当選し大統領に就任しました。史実のルーズベルトと異なり相互不干渉主義を強めています。

 

 

ドイツ、イタリアが降伏しましたが、枢軸国に合流した日本帝国が抵抗を続けており、フランス連合の対ファシズム戦争はまだ終わっていません。

 

時は1941年。フランス帝国海軍では日本帝国海軍に太刀打ちできないため、陸軍再編と並行していた海軍再編が完了するまでは、消極的攻勢を続けました。1942年9月、航空艦隊の修練が完了したため主力艦隊を極東に派遣。

 

マラッカ海峡で日本海軍と接敵しますがこれを退けます。

 

 

ソ連および中国共産党は日本と交戦中であったため、軍事通行権を一時的に借り受けて朝鮮半島より強襲上陸準備を開始。

 

九州が無防備であったため日本軍の展開前に一気に占領を行い、中国地方および四国に進出します。

 

 

 

近畿地方に差し掛かり日本軍が展開し始めたため、いったん進軍を停止しました。海上では日本海軍と何度か海戦を繰り返し、それなりの損害を被りつつも、順調に日本海軍を退けます。

 

日本帝国本土の防備が薄かったため、進軍を開始し東京全面まで進みますが、東京の抵抗が激しく損害を増やすだけだったため、包囲にとどめて北上開始。東北および北海道全土を占領したことで、遂に日本帝国が降伏しました。

 

 

オーストリアのウィーンにて講和条約が締結され、枢軸国の処遇が決定。

 

日本帝国は南樺太および千島列島をソ連に割譲することを余儀なくされる。太平洋諸島はマリアナおよびミクロネシアの独立を承認し、台湾および大陸の中国領は連合国側で戦っていた山西政府に割譲。朝鮮も独立しています。

 

 

戦争をもたらしたナチスドイツは満場一致で解体され、フランス帝国の傀儡ながらウィルヘルム3世が帰還し、プロイセン王家のドイツ帝国が再興しました。イタリアにおいてもファッショを追放し、王国は存続しサヴォイア家執政となりました。


 

さらに、ハプスブルク家の帰還を許し、オーストリア皇帝にしてボヘミア国王のオットー・フォン・ハプスブルクが戴冠しています。独伊のみならず日本もフランス連合の同盟国となり、フランス帝国の支配地域が一挙に拡大しました。

 

 

この情勢を見て、サラザール執政下のポルトガル共和国が、最古の同盟国イギリスではなくフランス連合への加盟を申請してきました。

 

枢軸国との戦争が終結したことにより、日本にて東京オリンピックが開催。戦後の確執を排除し、平和の祭典は成功を収めています。

 

しかし平和は長く続かず、ソ連がフィンランドへに対し戦争事由の正当化を続けていたため、フランス連合はフィンランドへの独立保証を宣言。独立を侵す場合、然るべき措置をとることを明確にします。

 

結局、これもソ連の戦争を思いとどまらせるには至らず、1943年2月ソ連がフィンランドに宣戦布告。フィンランドの救援要請に応え、フランス連合はソ連に対し宣戦布告します。