中国大陸では、中国南西部の広東州を中心に、陳炯明を首班とした広東連邦政府が成立しています。一方日本で選挙制度の改革を進め、女性参政権の拡大を推進。政治制度の改革も並行し、内閣企画院が創設されています。

 

 

 

史実と同じく、雲南省で龍雲が支配権を確立。雲南軍閥の指導者となっています。

 

 

トランスアムール共和国にてメルクーロフが首相に就任する中、ロシア共和国は和平を申し出てきます。さすがに継戦し、ペトログラードまで進軍するのは非現実的であるため、この和平案を受け入れ、シベリア一帯の支配をトランスアムールに一任。

 

 

1938年半ば、シベリアが全て大東亜共栄圏の支配下になったところで、国家方針【陽の昇るとき】を選択。本格的に対外介入することを明確にしたことで国際緊張が高まりますが、戦争事由の正当化にかかる日数が半分になり、政治力の上昇値も大幅に上がるという強烈なバフ効果がつきます。

 

 

引き続き、国家方針【八紘一宇】を選択。日本による秩序、日本による統一政策を推し進め、その一環としてインドの諸侯連邦にも接近します。

 

【八紘一宇】完了後、【東京会議を主催】を選択。史実の大東亜会議と酷似したものでありますが、日本の勢力圏である朝鮮、シャム、トランスアムール、ハワイのみが参加しました。

 

 

アメリカ内戦に乗じて独立したハワイ共和国は、立ち位置を明確にしていませんでしたが東京会議をきっかけに大東亜共栄圏への参加を申請してきました。勿論これを受諾します。

 

 

東京会議において、大東亜共栄圏各国は西洋帝国主義の共同非難。西洋の植民地主義への対決思想を強めます。それに並行し、国家方針【西進論】を選択。不安定な中国大陸に、秩序をもたらすための準備を開始します。

 

 

東京会議最終日。それまで貿易など含め多様な議論がなされてきましたが、最終日は軍事同盟に関して、より強く積極的な協力体制を構築することを決定しています。

 

これに対して、まず朝鮮王国が日本の方針に共鳴。他の参加国も追随し、意見がまとまっています。

 

 

広大な中国大陸へ進軍するにあたって、現地中国人の協力が必要不可欠であるため、現地民との協力を優先します。

 

 

戦略的に重要な南にも目を向け、極めて重要な位置に存在するフィリピンを確保。西欧帝国主義排除のための『協力』を迫り、屈服したフィリピンに友好政府が成立しました。

 

 

1939年7月、日本は清に宣戦布告。清は奉天政府を含めた周辺軍閥に責められており、既に死屍累々であったため山東軍閥の軍事通行圏を利用し進軍しました。北京を含めた華北は奉天政府が押さえ、臨時首都も武漢がやがて陥落し、日本は苦戦も何もないまま清の降伏で終わりました。

 

 

長沙にて条約が結ばれ、清は諸軍閥と日本に分割され消滅。終戦後の隙をついて、日本は奉天政府に宣戦布告。進軍を開始します。

 

国境沿いはほぼがら明きであり、朝鮮軍とトランスアムール軍と共同で進軍したことで、中国南部に展開していた奉天軍の帰還前に、首都奉天を占領。

 

 

僅かに存在する奉天海軍に対しては、空母翔鶴、瑞鶴、天城を主力とする艦隊を黄海へ派遣し、これを殲滅。シーレーンを確保します。

 

 

中国諸軍閥は、奉天政府を長として統一戦線を形成しており、奉天政府と戦争になった時点でその他諸軍閥とも交戦状態となります。しかし、【主要国】の扱いは奉天政府のみであるため、同政府が降伏した瞬間、統一戦線全体が降伏。これによって中国大陸のほぼすべてが降伏しました。

 

 

張作霖の奉天政府は解体し、新たに楊宇霆が首班の満州国が成立。中国諸軍閥もこれを解体し、広東連邦政府による支配権を認めています。やがて広東連邦政府は中華連合省と名称を変えました。