満州国は、はじめから大日本帝国の『属国』扱いとなっています。
大日本帝国の傀儡ランクは、低いものから順に、【帝国保護国】⇒【帝国提携国】⇒【帝国従属国】⇒【自主独立】となっています。
自治度の増減によりランクが上下し、低いと自国の軍需や民需の生産を宗主国へ献上したり、貿易を優遇しなければいけなかったりします。
逆に自治度が上がれば、宗主国が行う戦争への参加を拒否できるようになるなど、とにかく傀儡国の運命はこの自治度により決まる傀儡ランクに大きく左右されます。
満州国のランクは最低の【帝国保護国】から始まります。これ以上自治度が下がると、大日本帝国への編入(被併合)を許してしまうことになります。
まずすべきことは、国家方針【僻地の鎮定】。匪賊が跳梁跋扈し、国内がとても不安定なため、これの鎮圧を最優先します。
フレーバーとして、今世界のドイツは反ナチスの内戦が始まるようにしています。
ベルリンが陥落するとヒトラーが自殺するのは変わらず。
ヒムラーがナチを率いますが、すでに大勢は決しており、蜂起派が勝利します。
満州国は、国家方針で2つのルートがあります。
大日本帝国に追従する【屈従】と、その軛から離れ独自の道を歩む【自己主張】。今回は独立を目指すため、【自己主張】を選択します。
これをすることで、傀儡ランクが【帝国保護国】⇒【帝国従属国】へ無条件に上昇し、日中戦争への参加(日本へ協力)することを拒否できるようになります。
欧州ではドイツ帝国が再興された模様。共産主義を目下の大敵として、動きます。
満州国は、とにかく国内の安定度と戦争協力度(国民団結度)が低いため、これを向上させる国家方針を優先的に取得していきます。
1937年7月、日中戦争が始まり、当然ながら日本より参戦要請が届くが、丁重に拒否。
中華民国相手に日本が四苦八苦しているところ、満州は国内の基盤をかためていきます。
満州国を弱小国たらしめているものの一つに、国民精神の存在があります。
マイナスの国民精神、【低い正当性】。求心力が全くない溥儀に対するもので、安定度と戦争協力度に強烈なペナルティがあります。
もう一つが、【関東軍の拒否】。満州の権力を握っている関東軍により、貿易をするにしても何をするにしても、そのコストが通常よりも多くかかります。
これらは、国家方針を進めていくことで、緩和若しくは解消することができます。
国家方針【独立戦争】を完了すると、国名が清国へと変わり、大日本帝国を相手とした満州国の独立戦争が即座に始まります。
鉄板なのが、日中戦争で後ろから日本軍を刺す方法です。中華民国との間で包囲された日本軍は、およそ1個軍超を失い華北の支配権を完全に失うことになりました。戦力を失った日本軍が、体制を整える前に一気に朝鮮半島へ進軍。朝鮮を占領すれば、日本は和平を申し出てきます。
清国に、日本海を渡って日本を攻撃する理由もなければその方法もないため、ここは素直に和平提案を承諾します。和平案受諾後、清国は中華の統一に動き出します。
フランスへの接近を図り、軍事改革を推し進めます。翻って欧州では、1939年9月にポーランドがダンツィヒをドイツに返還。ソビエト連邦がポーランドへ宣戦布告し、ポーランド及びドイツ帝国、復活したオーストリア=ハンガリー帝国は、揃って連合国へ加盟し対ソ共同戦線をとっていました。
列強の目が対ソに向いている間に、清国は中華民国をはじめとした諸軍閥に向けて進軍。中華統一のため動きました。このころまでに、清朝皇族の血筋である愛新覚羅顯㺭、東洋のマタ・ハリこと川島芳子を女帝に据えています。
1940年11月、日本はフィリピンへ宣戦布告し、南進を開始。アメリカ合衆国は連合国へ加盟し、日本に対し宣戦布告しました。
史実寄り1年早い日米開戦です。タイ、イタリア、ブルガリアが大東亜共栄圏に加盟し、日本と共闘すると表明。
1940年12月、このころまでに中華統一が済んでいたため、陣営の立ち上げを行うことにしました。陣営名は、独りよがりな大東亜共栄圏でなく、本当の意味でのアジア連帯と対等な連携を目指す意味で【アジア州連合】と名付けました。肯定的な姿勢を示したチベット、ブータン、ネパール、続いてアフガニスタンとトルコが、一次加盟国となります。
清朝再興を果たしたことで、首都を新京から北京へ。
1941年1月、日本が清国をはじめとしたアジア州連合に宣戦布告してきました。
いったん、これに対しては沿岸防御をすることで守りに徹し、敗北しつつあるソビエトに矛先を向けます。既にレニングラード、モスクワを失い、600万以上の死傷者を出しつつもなお連合国相手に戦っているソ連を、後ろから刺します。
モンゴルと沿海州の回収、中央アジア諸国の解放を目的とし、対ソ宣戦布告します。ソ連軍の大半は欧州に出払っているようで、シベリア方面はびっくりするくらい手薄でした。カスピ海に近づいても、なお主力が出てこなかったため、もはやソ連に余力は残っていなかったようです。
バクーにて講和条約が開かれ、これによりソ連は解体。イワン・コーネフ大統領によるロシアが生まれ、中央アジア諸国もソ連から解き放たれ、アジア州連合へ加盟してもらいました。
これによりコミンテルンを母体とした共産主義体制は崩壊。連合国とアジア州連合という二極体制になります。未だ戦争を続ける日本を盟主とする大東亜共栄圏ですが、全世界を敵にしているため、長くはもたないでしょう。
フィンランドは、欧州の国でありながら、連合国ではなくアジア州連合への加盟を打診してきました。特に断る理由もないため、これを受諾。アジア州連合も、大所帯になりました。