自由フランス政府、最前線でドイツ、イタリアと戦う日本に対し支援を申し出る。
また、民主主義国家であるため日本国にも選挙はありますが、戦時中でもこれを実施するのかどうか、を選ぶことができます。戦時特例として選挙を見送ることもできますが、どちらにしてもファシズムの支持率は伸びるので、通常通り選挙は実施しました。
まだ1940年ですが、日英仏の共闘の結果、北アフリカからイタリア軍を追い出すことに成功。
日英連合海軍の奮闘によって、地中海の制海権は完全に連合国のものとなります。そのため、シチリア島は英軍が占領。
続いて英軍はイタリア半島最南端、カラブリアに上陸。橋頭保を築き、イタリア軍との激戦を繰り広げていました。
ただイタリア軍の抵抗激しく、イギリスは全く前進できずに泥沼状態となっていたため、日本は英軍と同じ戦線から展開することはせず、英伊戦線の後方に上陸する計画を立てました。
前線偵察の結果、首都ローマががら明きであることが判明したため、海兵9師団に上陸計画を立てさせ、作戦を実施します。近海の制海、制空権はすでに掌握しているため、安全な輸送です。
イギリス軍の進撃に抵抗するイタリア軍。その後方に日本軍は上陸し、イタリア軍の補給を寸断した上で、後方から攻撃を開始。これにはたまらず、イタリア軍は崩壊し、連合軍は一気に前線を押し上げました。
ですが、これ以降はナチスドイツ軍がイタリア戦線に展開したため、日本も進撃を停止。日英-独伊の睨みあいが続くことになります。
建前としてアジア独立の意思を掲げる日本国は、イギリスに対し植民地の権限移譲を提案していましたが、イギリスはこれを受諾。
イギリス領マラヤは、日本の支配下になります。
スウェーデン、ファシスト政権となり国名を【スヴェア・リーケ】と変え枢軸に合流。
これで北欧はフィンランドを除き、枢軸の庭と化しました。
また、大韓民国が連合国に加盟し、共闘することに。
ローマが陥落し、ファシストのイタリア政権は降伏しました。
が、北部の残存イタリア軍はドイツ軍指揮のもと、抵抗を継続します。
1941年11月、連合国-枢軸国の争いが拡大する中、英仏を中東から追い出すのに好機と判断したのか、【中東諸国間同盟】と称した同盟勢力、サウジアラビア、イラク、イラン、アフガニスタンが連合国に宣戦布告。
イギリス領エジプトもこれに呼応して連合に敵対しました。
さすがにこれを傍観するわけにはいかず、イタリアに派遣していた戦力の中から、慎重に軍を抽出し、中東へ振り分けます。
1942年を回り参戦したアメリカ合衆国の助力、位置的に近い英領インド軍を主体に攻め上がり、中東諸国間同盟を降伏させます。
各国は民主主義国家に耐性を転換させて独立を与えますが、中東諸国間同盟を主導したサウジアラビア(アラビア帝国)は、一時的日本国の管理下に置いて、その力を押さえ込みます。
自由フランス政府から日本国へ、管理権を委譲されたインドシナ。
インフラ整備などもひと段落したため、ベトナム、ラオス、カンボジアの3国を独立させました。
1943年夏、イギリス軍、英領インド軍が主体となってダンケルクに上陸。これに米軍も続き橋頭保を築きます。
この状況を好機と判断し、イタリア半島の日本軍も一気に攻勢を開始し、北進。
戦力比が崩れたドイツ軍は敗走し、フランス方面のドイツ軍は本国と分断。
ドイツ軍の約2個軍相当が包囲殲滅されていきました。
これまでの戦いで、ドイツ軍は790万人もの犠牲を出し、枢軸全体で1840万人も死者を出していました。
他方、連合国とコミンテルンも、合わせれば1900万人の損害を被っています。
さすがに戦力が尽きたドイツ軍相手に、連合国は一挙に進軍。イギリス軍がベルリンを占領します。
東方では、コミンテルンと共闘している中華民国軍とソ連軍の物量の前に、ドイツ軍はミンスクにさえ到達できず膠着状態となっていました。
ベルリンが陥落し、ドイツは降伏。ダンツィヒにて条約締結です。
ヤルタ会談の前であるため、ドイツ連邦共和国ではなく、ドイツ共和国に体制が変わりました。
欧州に戦火をもたらしたドイツの罪は重く、国土が大幅に縮小させられることになります。ソ連はポーランドをコミンテルン側に留まらせ、ルーマニア一帯を直接統治しています。
イタリアは植民地をすべて放棄させられ、北アフリカ戦線で大きく貢献した日本が、一時的な管理国となりました。