第一次世界大戦。
世界史上初めての大戦争は、結局はドイツ、オーストリアを主とした中欧同盟の勝利に終わり、イギリス、フランスらは敗戦国となった。
ドイツ帝国に国土を蹂躙されたフランスは、共産主義革命の勃発によりフランス・コミューンと呼ばれる新たな国家として生まれ変わる。そしてイギリスは、ドイツ帝国の渡海を強大な王立海軍をもって許さず、国土を侵されぬままに、敗北という形で終戦した。
異なる歴史...MOD wikiよりごく一部を抜粋。
1925年
ウェールズで起きた炭鉱夫のストは、政府が軍を送ると脅したことで、すぐにゼネストへと拡大した。ほどなくしてストは叛乱を起こした海軍の一部勢力の支持を受け、国王と政府はカナダへ亡命するという結果となった。サンディカリスト、労働者、ウェールズおよびスコットランドの民族主義者、参政権拡張論者らによる連立政権が、カリスマを集めていたジョン・マクレーンのもと成立した。
イギリスの凋落は、長年の敵国多数による大々的な勢力奪取を来たらしめることとなった。ジブラルタルはついにスペインの手に再び戻ることになり、アルゼンチンはすぐさまフォークランドを獲り、エジプトはスーダンに対する単独支配権を得、オスマン帝国はキプロスの支配権を取り戻した。ドイツ帝国は、マルタ、スエズ、アデン、セイロン、海峡植民地〔マレー半島南部〕、ブルネイ、サラワクといった戦略拠点や重要植民地などと同様に、イギリス領アフリカの大半を獲得することに成功した。
【清の歴史情報】
1911年、孫文が中華民国の建国を宣言すると、中国は幾つもの地域に分裂してしまった。1644年に満州族の愛新覚羅氏によって建てられた清は、その1年後に隆裕大后〔光緒帝の妃〕が、まだ幼い子供であった皇帝の溥儀が退位するとの内容の勅令を出して倒れた。
当時6歳だった溥儀は、〔名目的にではあるが〕大清皇帝の地位に留まり、この時期に中国を分割した数々の軍閥の1人によって追い出されるまで、中華民国の予算により紫禁城に住まい続けた。
中華民国は無政府状態であるにも関わらず存続し続け、袁世凱将軍の短命に終わった皇帝在位(1916)や、軍閥の1人である張勲による溥儀の20日間の復辟事件(1917)などの逸話を残している。20年代になると、中国の内戦がアジアの均衡を崩しかねないと恐れたドイツ宰相ティルピッツが、中国に介入することを決めた。
数か月でドイツ植民地軍は中国東部を支配下に置き、この地域を二つに分けた。ドイツの企業によって管理される南部と、清朝を復活させ、現地政治家の協力者によって支配される北部とである。先帝の溥儀は、康徳帝として復位した。
現在、清朝はかつてのそれの影のような状態にある。独立国としての尊厳を失い、経済はドイツのトラストに握られ、その正当性ですら疑わしく、上清天国とその清教徒的革命家たちによって挑戦を受けている。
【上清天国の歴史情報】
上清天国は、〔新興宗教である〕一貫道の張天然により創設された神政制を敷く革命国家である。この国はまた、1850年代から60年代にかけ、清朝に対し革命を起こそうとして失敗した太平天国を「霊的に後継」する国であると考えられている。
この国家は一貫道の〔実質的な〕創設者の地位にある祖師〔張天然〕と、その妻であり次席を務める孫慧明〔孫素貞〕により支配されている。一貫道は、道教、儒教、仏教、それに西洋の宗教、特にキリスト教とイスラム教の理念や概念を混淆したものであり、とりわけ後者ふたつに近いものを有する一神教である。上清天国は1920年代中葉のドイツの中国侵攻を受けて建国された。
当時、中国の人民は再興を遂げた清朝が、これまで以上に腐敗し、外国の支配を受けたものであるとして、既に愛想を尽かしており、天命を奉ずるに足りないと見なしていた。張天然は、中国を統一し、中国人民のみによって統治される中国、強大な中原、天命を奉じた王道楽土を打ち立てようと演説し、それに心動かされた人民は彼の大義を支持した。数年後、彼の小さな教団は、注目すべき強大な勢力へと発展し、特に中部中国の山岳地帯に位置する山西省においては、強い力を有していた。
1924年、清朝に対する革命を優勢に進め、山西を確保し、神政国家を樹立した。神政国家とはいっても、清朝政府に比して慈悲深く、自由で近代的な官僚制度を有していたのである。その後、張天然は国内の工業化を進め「至福千年運動軍」[Millenarian Movement Army]を名付けられた軍隊を創設した。軍には優れた軍事指導者として知られ一貫道を篤く奉じていた方志敏を「天国大将軍」[Commander of the great armies of heaven]に任じて領内の要塞化を進めさており、それは順調に進んでいた。
1936年現在、大軍を擁し、信徒を集め、国家の工業化・近代化を進め終えた張天然は、夷狄を討ち払い、腐敗した清を倒し、中原を浄化すべく「王道十字軍」[Heavenly Crusade]を行うと宣言した。聖戦は成功するだろうか? 中国は本当に彼が宣じた如くに、天の頂の帝国と成りうるのだろうか? あるいはかつて失敗した革命の如く、彼もまた歴史の陰へと消え去るのだろうか?
【条約都市の歴史情報】
1926年、ドイツが中国に侵攻し、同年11月に南京条約が調印されると、国際貿易は沿岸部の富裕な都市に集中されるようになった。こうした都市は、中国における権益を手にした列強の共同支配下にあった。
都市連合体の独立は、清、東亜総合商社、日本、オーストララシア〔原文は'Australia'〕、カナダ、合衆国、そしてドイツといった、世界規模の列強や地域の有力勢力により、保障されていた。当初は、条約都市は国際貿易のみならず東亜総合商社領や清に対する密貿易により、繁栄を遂げていた。
残念なことに、このために腐敗が強まり、秘密犯罪組織が創設されることになった。経済危機に瀕して、都市評議会の権益が脅かされるようになった。犯罪組織の首領たちはこの機に乗じて権力を強め、政府の支配を目論むかもしれない
【日本の歴史情報】
「名誉ある和平」によって、日本の海外領土──最も重要とされるのは朝鮮──での支配権が保障されたとはいえ、日本の情勢は大戦の終わり頃から既に危機的状況にあった。かつての〔戦争特需による〕好景気は、フランスの崩壊の後に灰燼に帰してしまい、社会階級間の格差が拡大を続けたのだ。
1918年の米騒動に始まり、大正時代(1912~1926)後期には、深刻な経済危機と社会対立に直面した。また、1923年には人類史上最大の天災の一つである関東大震災が発生し、フランスのサンディカリスト革命に影響された無政府主義者による暴動がこれに続いた。一人の無政府主義者による摂政宮裕仁親王への暗殺計画が失敗に終わると、日本の歴史上初めて戒厳令が発布された。
田中義一将軍(1864~1936)は、元老と政友本党(政友会からの分裂派)の支持を受けて内閣を組織し、田中の苛烈な支配を象徴する治安維持法が制定された。だが、大英帝国の崩壊とアメリカの経済不況によって、日本の輸出主導の経済は終わりの見えない大暴落を続けた。1926年には、国内での一連の大規模な銀行倒産と、ドイツの中国への軍事介入に直面した。日本の中国権益の保護、金融システムの安定化の両方において田中は無為無策であったため、彼の統治の欠陥が露呈することとなった。
その年の4月には、二大野党の政友会と憲政会の連立が組織され、いわゆる「第二次護憲運動」が始まった。野党に対する民衆の支持と摂政宮親王の間接的な干渉によって、田中は辞任を余儀なくされた。〔その後〕連立内閣が成立し、普通選挙権と政党内閣制による民主的統治の始まりが告げられた。連立体制はしかし、満州への干渉問題によって崩壊した。犬養毅首相と彼の〔所属する〕政友会内閣は、膨大な財政難を軽減ないし解決し、ドイツによる中国の完全な支配を妨げるために、軍閥政治家の張作霖を支持すると決意した。
6月4日、日本軍部隊が満州地域の国境を横断し、迅速に満州を占領した。だがベルリンからの外交圧力によって更なる前進は止められることとなった。それにもかかわらず、作戦の成功によって軍部は強力な地位を形成し、その殆どが更なる別の地域を獲得を求めることによって〔国が〕前進すると感じるようになっていた。〔こうした〕1926年という混沌とした年は、大正天皇の死と共に終わり、彼の息子である裕仁が即位した。
その後の9年間は、緩やかな景気回復と平和的な政治的発展を見た。1936年の日本は、ドイツの世界的優位が弱体化しつつあるように見受けられていることに伴って、その帝国を拡張する準備が出来ており、残存する清の中国領土とドイツの太平洋領土の両方に貪欲なまなざしを向けている。