第一次世界大戦は、ドイツ帝国を中心とした中欧同盟が勝利。

欧州はドイツ帝国による新たな秩序によって再編され、イギリスとフランスは【敗戦国】となった。

 

勝戦国:ドイツ、オーストリア、ブルガリア、オスマン

敗戦国:イギリス、フランス、イタリア、日本..その他中小国

 

 

異なる歴史...MOD wikiよりごく一部を抜粋。

 

1919年3月、ドイツ軍は満を持して攻勢をかけ、協商軍の戦線を突破、5月にパリを包囲する。4月、オーストリア軍はイタリアに攻勢をかけ、4月にはイタリア軍はヴェネチアで捕捉され、全軍の6割が降伏する。

8月1日にローマ陥落、6日にイタリアは無条件降伏する。
ドイツ軍は9月までに南仏まで席巻し、10月にパリ陥落。フランスは降伏する。

 

フランス、ロシア、イタリア、バルカンの協商側参戦国などが敗北したことにより、協商国はイギリス帝国、日本、ポルトガルのみにまで減ってしまった。

これらの国々は、どの国も直接的にはドイツの脅威に晒されてはいないが、ドイツの脅威を喰い止めることも、また同様に不可能だった。海上でのドイツとイギリスとの戦いは、二年以上に及んでいた。

 

1919年末までに、中欧同盟側は圧倒的優勢を占めることになるが、イギリス本土に手をかける力はなく、また極東の日本にも手を出せないまま、1922年までにらみ合いが続くことになり、最終的には停戦に至る。

 

かつて協商に所属していた国々に対する和平は、どれも厳しい条件だった。

フランスは、フランス領コンゴ、マダガスカル、フランス領太平洋植民地などを割譲させられ、加えてフランス領ロレーヌ地方も占領された。革命により条約の批准は回避され、ドイツはこのために単にこうした植民地を占領したのみとなった
 

 

 

【分断されたイタリア半島】

 

 

 

〈イタリア連邦の歴史情報〉

イタリアの統一は、半世紀近い《努力を行った》末、1861年に完了した。

第1次世界大戦において、伝統的な〔友好関係を持つ〕中欧諸国との同盟ではなく、協商の側に就くとした決断は、高い代償を要する誤りだったことが明らかとなった。

 

1919年、イタリアは中欧同盟の攻勢の前に崩壊し、イタリアの裏切りに対する怒りと、イタリア半島を分断した状態に置くことを望んだオーストリアの意向により、統一国家としてのイタリアは解体された。

 

オーストリアの占領下に入ってから3年後、〔かつてイタリア北部の諸邦を構成していた〕公爵達が北部イタリアにおいて、名目上は教皇を元首とするが、実際には大規模な自治領から構成される連邦を建国した。イタリア連邦の成立である。

 

しかるに1930年代初期に、急進的な枢機卿の一団がバチカンによる政治統制を成功させたことで、変化が起こりだした。ピウス11世の援助を受けて、この集団は中央集権化を進め、教皇権力を拡張し、連邦を統制していったのである。

この時期、オーストリアは国内政治に忙殺されており、現状を維持するために介入することに乗り気ではなかった。

 

サンディカリスムの脅威からイタリア連邦を守るためには強力な指導者が必要であるという認識がなされる中、人民から絶大な支持を得た教皇は1935年に北伊の正式な指導者となった。だが、教皇庁は直ちに、連邦の南と西から悪魔じみたサンディカリスト体制が迫っており、そしてオーストリア勢力均衡を打ち破ろうとしている現状に対処しなければならなかった。

 

しかし、スペイン王家(Carlist)やブラジルの伝統主義者(Integralist)や、あるいは強力なドイツ中央党でさえ、味方につける機会を求められようし、またサン・ピエトロ大聖堂の聖座が持つ精神的権威は、常に認められてきたのではなかったか?

 

 

〈イタリア社会主義共和国の歴史情報〉

 

ナポリ王国(両シチリア王国)は、1860年に統一イタリア王国により併合されるまで、南部イタリアを支配していた。第1次世界大戦の終わりにイタリアが崩壊した際には、中欧同盟は〔イタリア〕半島に対し、『分割して弱体化させる』方針の一環として王国を復活させ、傀儡の王を玉座に据えた。

 

オーストリア人が驚いたことには、この案に対して伝統的に保守主義者である農民たちは、強く反対した。彼らの反発は強く、一連の暴動を引き起こす結果となったのである。同じころ、アナルコ・サンディカリスム運動がこの新生した国家で勃興し始め、世界のあちこちで事件に勢いづけられて次第に攻撃的になっていった。

 

やがて『両シチリア』(イタリア半島南部とシチリア島のこと)は混沌に陥り、それが鎮まるのは翌年の半ば頃までかかった。オーストリア占領下のイタリア北部にあったため、行動を起こすことができなかったサンディカリスト指導者たちは、南部に移りサンディカリスト勢力の拡大を加速することに尽力した。彼らは、自らの力をより大きなものとするため、アナーキストと政治同盟を結成することを望んだ。

 

1921年2月、強い不満を抱く農民たちの大部分を結集することに成功したアナルコ・サンディカリスム勢力は、革命を起こす準備が整ったと考えた。彼らは基本的に〔この革命を〕イタリア南部からオーストリアの影響力を払底する機会だと考えていた。

 

内戦が始まり2カ月ほどでアナルコ・サンディカリスム勢力は勝利し、1921年4月、シチリア共和国の建国が宣言され、フランスとの同盟が締結された。ドイツの介入拒否の為、オーストリアは不承不承この新国家を承認した。

 

 

 

〈フランス・コミューンの歴史情報〉

 

 

;第三共和政は、その始まりと同じように滅亡した。ドイツによって敗北を喫し、本国で共産主義革命が起きたのである。1919年11月、CGT〔Confederation generale du travail.労働総同盟〕の呼びかけで始まった革命ゼネストは、国家を麻痺させ、ブルジョア政府を瓦解を引き起こした。

 

「秩序党」は叛乱を終わらせるには力が足りず、続く数ヶ月において「支配者階級」は、左翼勢力の連合によって国外へ逃亡することを余儀なくされた。言い方を換えれば、悲惨な内戦があったというわけである。

 

15年後、〔指導部として〕公安委員会〔Comite de Salut Public〕を頂き、サンディカリストと社会主義者の合意の上に形成された「フランス・コミューン」と自称する国家が樹立された。ところで1936年になると、荒廃した国土を復興し、革命の成果を国外の脅威から守るためのものと解釈されてきたこの合意は、多くの批判によって時代遅れのものと見なされるようになり、より急進的な政策が求められるようになった。

 

フランスは国防と国家の使命について自信を強めており、フランス革命の伝統は修正された。今後数年の間にどのような勢力が有力となるのかは、現在のところ全く以て不明である

 

 

〈イギリス連合の歴史情報〉

 

フランスの敗北の後、イギリスとドイツとの戦争は、だらだらと二年間続いた。手詰まりの状態は、1921年、ルーデンドルフ将軍が「名誉ある和平」を行おうという提案を行い、ロイド=ジョージが同意したことで、遂に崩れた。この和平条約において、イギリスはドイツが戦争で得た権益を承認し、一方でドイツはイギリス、日本、ポルトガルなど協商国に対し、帝国としての権益を尊重するとした。

 

イギリスの海外領土は概して秩序を保ち、現状のまま残ったのだが、イギリス本土の人々からの支持や忠誠心についてはそうではなかった。1925年、破局が訪れた。サウスウェールズの炭田で起きた小規模な労働紛争が、治安回復のために軍を投入した後、急速にエスカレートしたのだ。TUC〔Trades Union Congress、全英労働組合会議〕の呼びかけにより、フランスで試されたゼネストが行われたことを受け、安全保障内閣〔原文はgovernment of national security〕は軍に対し、ストに合流した叛乱部隊を鎮圧せよと命じた。叛乱には海軍の兵士も多数が加わっていた。

 

6週間にもわたって大規模に暴動と掠奪が行われ、宣伝ビラが撒き散らされた後、王室は政府要人や資産家を連れてカナダに脱出することとなった。支配階級を放逐した後、革命グループの暫定政府は、上下両院を解散し、新生「イギリス連合」政府が、新たに労働組合会議を設けるため選挙を行うと宣言した。

 

現在のところイギリス人民は、本国を確保し、政治的・経済的孤立の中で社会主義の建設に邁進しており、強力な共和国空軍および海軍による国防を進め、各地方は軍予備役と新たな警察機構の双方として機能する民兵組織によって守られている。だが、世界がまさに混沌の淵に瀕しているように思われる現在、イギリスはかつての植民地に対して、革命を広める義務があるのではないかと、多くの者が考え始めている。

 

最終的には、際限のない連合〔の拡大〕に対して、カナダの王政主義者が画策する余地を与えない〔ことがイギリスの目的である