ドイツ国民からの圧倒的支持を得て、ドイツは国際連盟からの脱退を果たす。これに対し何ら制裁できない国際連盟の無力ぶりは誰の目にも明らかでありました。
不穏な空気漂い始めた1934年の欧州。
1934年、第一次大戦の英雄でもあるヒンデンブルク大統領死去。
これにより、首相アドルフ・ヒトラーは大統領も兼ねるようになり、同年8月には
正式に総統に就任し、独裁者の地位を固めました。
国際連盟脱退したドイツとは対照的に、加盟を果たしたソ連はイタリアとの間に
不可侵条約を持ちかけるも、イタリアが拒否。
伊ソ間協定は物別れに終わった模様。
1935年。ドイツが再軍備宣言を出したことで、フランスとソ連が歩み寄った条約。この世界では、ソ連が不信感いっぱいらしく、調印を拒否した模様。
ドイツにとっては、フランスとソ連のつながりが薄いほどやりやすい。
イタリアの動向を警戒するエチオピア帝国は、動員を開始して臨戦態勢を整えている。
失地回復の手始め。ザール連盟管理地域のドイツ復帰。
ザールラントはヴェルサイユ条約で国際連盟の共同管理区となり、管理期限が切れる1935年、国民投票でその帰結を決定することになっていました。
投票の結果、圧倒的支持でザール地区はドイツ復帰となります。
また、軍事的には1935年当時のドイツはいまだ弱小でした。
プレイヤーの歩兵ユニット生産でこれを補いたいところですが、歩兵生産は早くとも1年かかる上に、平時の人的資源の制約もあって、軍備拡大はできません。
しかし、ドイツはイベント、ヴェーア・マハトの設立で、およそ50~60万の兵力を獲得できます。ここから、徴兵制の拡大も合わせて軍事力の増強を図ります。
1936年。
ナチス・ドイツにとって、ヒトラーにとって危険な賭け。ラインラント進駐。
ヒトラーもこれには相当肝を冷やしていたらしく、万が一にもフランス軍が行動を起こした場合、ドイツ軍は撤退するしかありませんでした。
しかし、軍事的緊張を望まないフランスは動きませんでした。
ヒトラーは、賭けに勝利したことで、より大胆になっていきます。
ラインラント進駐の時、イギリスやフランスは動かなかった。
ならば、ドイツがさらに有利な立場に立った状況下で英仏が動くことなどあり得ない、と。
合わせて、日独伊防共協定を締結。ソ連の封じ込めを図ります。
そんな中、イタリアは兼ねてより狙っていたエチオピアへの侵攻を開始。
第2次エチオピア戦争がはじまりますが、結局エチオピアに抗する力はなく降伏。イタリア領東アフリカとして再編されます。
1937年
スペイン内戦、支那事変の勃発。
ドイツは特に興味なく、軍拡を突き進む。
隣国オーストリアがインクヴァルトの政権になったことで、アンシュルスを実行。
全てのドイツ人は一つの国家の元に、大ドイツの成立です。
これにより、オーストリアの工業のみならず、オーストリア軍もドイツ軍が吸収。
ミュンヘン協定はすっ飛ばして
運命の年である、1939年。
イベントモロトフ・リッペントロップ協定を実行。
これは史実通りに。ソ連と争うリスクがなく、東欧を分割できるとなれば喜んで締結します。しかも西欧はドイツの好きにして良いのですから、これほどの好条件はありません。

ダンツィヒをドイツに帰結させるよう手回し。
8月にポーランドに最後通牒を突きつけますが、ポーランドはこれを受諾し、ダンツィヒを無償でドイツに差し出す。なんと拍子抜けする結末でしょうか。
これで世界大戦は免れました...とはなりません。
もとより、ポーランドを生かしておくつもりなど欠片もないのですから、ダンツィヒを無傷で手に入れられたなら儲けもの。今度はポーランドを全ていただくことにしましょう。
ドイツはポーランドに宣戦布告。
ちなみに、この時点でハンガリーと同盟を締結済。ポーランド侵攻にはハンガリー軍も参加しています。
ハンガリー軍の錬度はお世辞にも優れているとは言い難いですが、兵力不足に悩まされるドイツにとっては貴重な戦力となります。


ドイツのポーランド侵攻を見過ごすつもりはないらしく、フランスとイギリスは即日、ドイツに国交断絶と宣戦布告を通告。
これにより、ほぼ史実通りの世界大戦がはじまりました。
イギリス、フランスはポーランド救援の為に軍隊を動かすことなく、傍観。
独仏間の国境線では、マジノ線-ジークフリート戦でにらみ合いが続くのみ。
ドイツの侵攻にたいしポーランド軍も持ちこたえますが、東側のソ連もポーランドに対し軍事行動を起こす。
東西、独ソを同時に相手にする形となったポーランドは瞬く間に崩壊、分割されて世界地図から姿を消しました。
この段階で、MR協定を破ってポーランド全土をドイツ領にすることもできますが、その場合はソ連と即時開戦となるため、今回は史実通りに。
ポーランドを片付けたのち、ヴェーゼル演習作戦を行えるようになりますが、兵力温存の為に、とりあえず北欧は見逃す。
そして、1940年の春の雪溶けを待ち、黄作戦を発動。ベネルクスからマジノ線を迂回し、一気にフランス占領を目指します。
1940年時点では、戦車の性能ではフランス軍に優位性がありました。
また、当時のフランスは陸軍大国でしたが、塹壕戦という第一次大戦のドクトリンを抜け出すことができず、消耗の抑制という防衛戦術のみに重点を置いた結果、ナチス・ドイツが編み出した電撃戦という新戦術に敗退してしまうのでした。
かつての普仏戦争では、フランスはプロイセンの砲兵重視の火力戦術に圧倒されて敗北し、その戦術見直しを迫られました。
その約80年後、火力重視と塹壕戦に凝り固まったフランス陸軍は、ドイツの機動戦術に敗北したのです。

前大戦では、ドイツは最後までベルギーの占領を果たせませんでした。
しかし、力なき小国など、道路でしかないのです。
ルクセンブルクは作戦発動から即日併合。
ベルギー、オランダもフランス軍と分断し、その全土を占領。
パリの攻防。
もはや充足率もお粗末な者となっているフランス軍。
市街戦となるため、戦車は包囲にとどめ、歩兵、騎兵での総攻撃を実行。
守るフランス軍は約7万の兵力。ドイツは総勢18万で攻勢を行いました。
この状況を見て、イタリアは枢軸への参加を申し出てくる。
日本ではヘタリアだとかパスタだとか、なにかと馬鹿にされがちなイタリア軍ですが、このゲームではそれなりに役に立つので、断る理由はありません。
ドイツは、イタリアの枢軸加盟を承諾します。
もはや勝ち目なしと判断したフランスは、ドイツに対し停戦を申し出る。
フランス降伏という危機に対して、イギリスは一時的な英仏連合の形成を提案します。
ドイツはフランスに対して、どの程度の要求をするかによって展開が代わってきます。
たとえば、フランスの大都市をドイツに割譲せよなどと要求すれば、フランスは滅びるまで抗する可能性が極めて高いでしょう。
逆に、占領地の返還度合いが多ければ多いほど、フランスは停戦合意しやすくなります。
しかし、早々と引き揚げてしまったイギリス大陸派遣軍。
さらにドイツに接収されることを恐れ、友軍であるはずのフランス海軍を攻撃するというイギリスの愚行に、フランスは失望を隠しませんでした。
フランス政府は英仏連合の形成を拒絶し、ドイツとの停戦に合意。
今回は、ベネルクスとエルザス-ロートリンゲン(アルザス-ロレーヌ)以外のすべてのフランス領土を返還しました。
防衛しなければならない範囲が増えるだけなので、大西洋沿岸部はいりません。フランス植民地もそのまま保持を許すことにします。
ドイツに逆らわないのであれば、その独立を脅かすことはない。という条件を、フランスは快く呑んでくれました。
これからのフランスは、ドイツの仇敵ではなく忠実なしもべです。