主に自分用の読み物として、HOI2のスイスとオーストリアの歴史情報を網羅。
スイス連邦の歴史情報
スイス連邦は19世紀に危機を迎えた。いくつかの州で自由主義勢力が台頭し、さらなる民主化と中央集権を要求した。しかし、この運動に保守的なカトリック諸州が反発し、1845年に分離同盟を結成した。そして1848年になると分離同盟戦争が勃発、自由主義者側が勝利を収めた。
同年に連邦憲法が採択され、スイスはそれまでのゆるやかな州の集まりから、ベルンを連邦の新しい首都とする連邦国家へと生まれ変わる。新憲法のもと、連邦参事会、連邦議会、連邦裁判所などの新しい機関が設けられた。第一次世界大戦が起こると、国内のドイツ語圏とフランス語圏の住民の間でいくらか争いがあったものの、スイスは中立を維持した。
しかし隣国がすべて連合軍か枢軸軍として戦っている状況での中立は、スイスに経済問題を引き起こした。同じ頃、極左勢力が多くの支持を集め、1918年には労働運動がストライキを呼びかけ、大規模な社会改革を目指したものの失敗に終わる。しかしこの運動をきっかけに一連の社会改革が始まり、高賃金と労働時間の短縮が実現した。
1919年には比例代表選挙が導入される。その結果、保守派の自由民主党が単独過半数を失い、逆に社会民主党が勢力を伸ばした。1930年代に入ると、社会民主党と保守連合との政治紛争が続いた。スイスは1920年、保守派や親独派国民の反対にもかかわらず、国際連盟に加入した。
完全永世中立の方針は、選択的中立へと変わった。ロンドン宣言により、スイスは国際連盟による軍事制裁への不参加を認められる。
ところが1938年には、再び完全永世中立へと方針を戻した。
北をナチス・ドイツに、南をファシスト・イタリアに挟まれたスイスは、この2つの国との紛争を恐れたのだ。国内の各政党は国防意識を高めるべく一致団結して、ナチズムとファシズムの脅威に対抗しようとしている。
オーストリア共和国の歴史情報
第一次世界大戦後、オーストリアの領土はドイツ系住民の住む中核地域のみに縮小され、1918年11月12日に共和国となった。暫定国会が開かれて暫定憲法が起草されると、社会民主党を率いるカール・レナー(1919~1920年)の下で連立政権が発足した。
選挙制度も、それまでの多数派方式に代わって、比例代表制が導入され、女性の参政権も認められた。この国会と政府の最終目標は、ドイツとの合併であったが、連合国の反対により実現に至らなかった。オーストリアを連邦国家と定めた憲法は1920年に発布された。その後実施された選挙では社会民主党が敗れ、保守派のキリスト教社会党が勝利し、それからしばらくの間、オーストリアの政治を支配することになる。
しかし誕生間もない共和国を安定させることはできなかった。深刻な経済問題を背景に、オーストリア社会は極左(共和国防衛同盟)と極右(護国団)に二極化し、何度か内戦の瀬戸際に立たされた。国内の安定を図るため、1929年に憲法が改正されて大統領の権限が強化された。1930年代の初めには、オーストリアでもナチスが支持を集め始める。保守派のエンゲルベルト・ドルフス首相がナチスの台頭を契機に憲法を停止して、独裁制を敷いた。
1934年に社会情勢が不安になると、ドルフスは自ら率いる祖国戦線を除く全政党を解散させ、他のファシスト国家にならった独裁主義的憲法を発布した。しかし彼は1934年7月25日のクーデター事件において暗殺された。彼の後継者となったクルト・シュシュニックは政策を継承し、オーストリアの主権を守るためにドイツとの緊張を解消しようと努めた。