おもに自分用の読み物として、フランスの歴史情報を網羅。






フランス(第三共和政)の歴史情報


第一次世界大戦中のフランスの戦死者は、人口に対する比率が主要参戦国の中では最も高く、人口構成の破綻は戦後の徴兵数の不足となって現れた(いわゆる“中空の世代”)。



当時のフランスは、復活を果たしたドイツと領土拡大政策をとるイタリア、そして不安定の度を増すスペインに囲まれていた。しかし大国としての誇りを捨ててまで、軍事的弱体化を容認することはできなかった。それを補うために1930年代初めにはドイツ国境地域の大規模要塞化に全力を注ぎ、中東欧諸国と“小協商”を結ぶことで、新たな国際体制を確立しようと努めた。



1936年までに、このことはさまざまな結果を生み出した。フランスの差し迫った外交上の問題は、マジノ線によって部分的に解決されたが、無防備なベルギー国境をどうするのかという問題が残った。またフランスはチェコやポーランドと友好関係を維持しながら、ソビエトとさえも接近を図ろうとしている。




しかし第三共和国は政局が安定せず、国内に大きな対立を抱えており、大陸の覇権を巡る深刻な脅威が起こった場合に、それを乗り切ることができるかどうか、実際のところ不明である。



フランスの差し迫った外交上の問題は、マジノ線によって部分的に解決されたが、無防備なベルギー国境をどうするのかという問題が残った。しかしチェコスロヴァキアの併合問題が起こったとき、西側諸国は危機的状況に陥ったチェコを支援できず、平和への希望が完全に打ち砕かれた。



そして第三共和制のフランスは深刻な国内対立を抱えたまま、ドイツと再び戦火を交えることになる。1914年のときと同じように深刻な軍事的危機を乗り切れるかどうか、今はまだわからない。








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しかし、我々が知る通り、フランスはドイツの攻勢が始まってからわずか一カ月で降伏。名目上は『中立国家』の傀儡、フランス国が誕生したのでした。


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フランス国(ヴィシー政権)の歴史情報






近代フランス史を端的に物語る、3つの重要な出来事がある。パリ・コミューン(1871年)、ヴェルダンの戦い(1916年)、そしてナチス・ドイツへの降伏(1940年)である。


1939年に参戦したフランスは、1914年当時のフランスではなかった。“聖なる団結”はもはや存在せず、国内は完全に分裂していた。1936年にブルム率いる人民戦線内閣が成立してから、フランスでは右翼と左翼の間で対立が続いた。右翼は“ブルムよりヒトラーを”のスローガンを呼びかけた。



ドイツ軍がフランスに侵攻してきたとき、フランスの右翼勢力の間では、新たなコミューンの出現に対する恐れが芽生え始めた。ヴェルダンの英雄である年老いたペタン将軍は、もちろんコミューン事件をよく覚えており、二度とそのような事態を招くべきではないと考えていた。ペタンは再びフランスを救うべく、首相の座に就いた。こうして新たに誕生した政権は速やかにドイツと講和を結び、後に政権の名前の由来となる温泉町のヴィシーに政府を置いた。



フランスは全土のほぼ半分をドイツに占領され、重い賠償金の支払いがのしかかった。そして植民地にはハゲタカが群がり始めた。日本はインドシナを占領すべく準備を整え、イタリアはチュニジアに食指を伸ばし、スペインはモロッコへの勢力拡大を目論んでいた。ドイツもいずれは、中央アフリカの旧植民地の返還を要求してくる恐れがあった。枢軸国とその思想に同調する国々は、フランスにとって脅威であった。



ヴィシー政権内部では、フランスが助けを求めていたのにイギリスは見捨てたと、誰もが感じていた。イギリスがダンケルクから部隊を撤退させ、自国の防衛のために戦闘機部隊をフランスの支援に回さなかったことを、ヴィシー政府の指導層は苦々しく思っていた。だがさらに悪い事態が起ころうとしている。仏領赤道アフリカが、イギリスの支援を受けたド・ゴール率いる自由フランス側に寝返ったのである。まわりを敵に囲まれたヴィシー政府に、いったい何ができるのだろうか?






自由フランス(ド・ゴール政権)の歴史情報

(1941年)




ドイツ軍はベネルクス3国、次いでフランスに攻め込み、フランス領内に展開していた仏英両軍を電撃作戦で打ち破った。イギリス大陸派遣軍は重装備を後に残したままダンケルクから撤退し、フランス政府は講和を申し出た。結果、ドイツはフランス北部を占領し、南部の統治はヴィシー政府に任された。



1940年にフランス内閣の一員であったシャルル・ド・ゴール将軍は、ドイツ占領下のフランスから脱出した。1940年6月18日、ド・ゴールはロンドンからBBCのラジオ放送を通じて、フランス国民に語りかけた。イギリス政府はこの演説を阻止しようとしたが、ウィンストン・チャーチルが演説を許可した。ド・ゴールはフランス人が男女を問わずナチスとの戦いに加わるよう求めた。



同年7月末の段階では、自由フランス軍に参加した義勇兵はわずか7000名にしか過ぎなかった。やがて1941年6月になると日本が仏領インドシナを支配するようになる。自由フランスは連合軍にとって二等国だ。自由フランスは海外植民地をヴィシー政府の手から奪い取れるのか。フランス本土を解放する上で、自由フランスはどんな役割を演じられるのか...?






(1944年)



4年前に圧倒的敗北を味わったフランス人たちが再び希望を見出している。すでにノルマンディーには連合軍が上陸し、フランスからドイツ占領軍が追い払われるのは、今や時間の問題だ。



しかし植民地や海外で数年間にわたって辛く厳しい戦いを続けてきたド・ゴール率いる自由フランス軍は、連合軍とともにドイツに攻め込んで、フランス国家の名誉を回復し、ヒトラーとナチズムを永遠に葬り去ると意気込んでいる……。