人民は、常に政治により欺かれるか半ば欺かれてきた愚かな被害者だった。これからもずっとそうであろう。全ての道徳、宗教、政治、社会的な言辞、宣言や約束の裏側に、幾つかの階級その他の利害が絡んでいるかどうか明らかにする事を学ぶまでは。――レーニン




1938年8月

フランス・コミューンがドイツ帝国に宣戦布告。

イギリス連合、フランス・コミューンの側に立ってドイツに宣戦布告。








第1次大戦から約20年。再び大陸の戦いになったわけですが、全体主義により独裁体制となったフランスとイギリスは、ドイツに猛攻を加えます。

史実でナチス・ドイツが採用していた機甲師団による電撃戦ドクトリンは、この世界ではフランス・コミューンが採用。

フランス・コミューンは機甲師団の集中運用による電撃戦、イギリス連合は大量の爆撃機を飛来させ、ドイツ劣勢のままに大戦がはじまりました。



加えて、ロシア帝国がブレスト・リトフスク条約で失った領土の回復を求めドイツに宣戦布告。

戦勝国として平和を謳歌していたドイツ帝国は一転、亡国の危機に陥る。

イタリアでも、サンディカリストが権力を握り、インターナショナルに加盟。ドイツに宣戦布告します。






この状況下で中欧同盟国の崩壊は免れず、オーストリア・ハンガリー帝国は降伏し解体。

新たにサンディカリスムのオーストリア共和国が出来上がります。








ロシアは白ロシア、ウクライナ、バルト3国を再び統治下に。

新たにベラルーシ、マロロシアとして傀儡国家をつくります。








インターナショナルと中欧同盟による大戦は、1年と持たずドイツ降伏により幕を閉じます。
ウィルヘルム2世のドイツ帝国政府は、傀儡国家だった中部アフリカ国に亡命。

ドイツ本土では、サンディカリストのドイツ連合が成立しました。








これによって、イギリス、フランス、ドイツ、イタリアがサンディカリスト達による支配下に。

なかなか面倒なことになりました。


ドイツ帝国が本土を失陥する前に、イギリス連合やフランス・コミューンに宣戦するという選択もないわけではなかったのですが、この時点での海軍革新が中途であったため、踏み切れませんでした。

これで一段と、イギリス本土奪還が難儀になったのですが、悪いニュースはつづく。


バックハウス海軍卿が死去。



1940年選挙。リチャード・ベネットの保守党を政権与党に選択します。

そんな中、4つの国に分裂したインドでは、バールティア・コミューンと諸侯連邦が交戦状態に。

同盟国のデリー共和国は静観する模様。弱小のマドラス共和国も静観。







インドでは、3つ(+1)の勢力による均衡が保たれていたのですが、これによってバールティアと諸侯連邦のどちらが勝利しても、デリー共和国に牙をむける可能性があるでしょう。

そうなったとき、基礎国力で劣るデリーが生き残れる可能性は低い。そしてデリーの敗北が意味するものは、協商とりわけイギリス帝国のインドにおける影響力が消滅することです。

それは非常に困る。インドを保持しておけば、ここを足場としてアジア進出も容易になるはず。




しかし逆にいえば、2つの勢力が争っているからこそ、漁夫の利を得るチャンスとも言えるでしょう。この機を逃さず、カナダは約18万の兵力をデリーに派遣。

バールティア・コミューンに宣戦布告します。







ドクトリンや装備で勝るため、特に問題なく進撃。

バールティア軍の主力を壊滅状態に追い込みます。





また、DH版では機甲師団の進撃速度が歩兵の4倍から5倍近くになっており、非常に速いです。

したがって、DDH版などに比べると、自動車化、戦車師団による包囲が比較的簡単に行えます。


ただし進撃が早いというのは、裏返せば補給の負担増にくわえ、自らが包囲される危険も増大していることは留意しなければならないでしょう。



バールティアは主力30個師団を包囲殲滅されたことで、もはや余力を失った模様。

こののちは消化試合となりました。

このゲームのルールとして、カナダ軍の進撃地はすべてデリーの占領区になっています。

なので、バールティアの首都カルカッタを占領したデリーにバールティア併合の権利が与えられます。




インドからサンディカリストを追放。ちなみに、ガンジーはバールティアに所属していたので、一緒に追放された模様です。

デリー共和国のバールティア併呑によって、国力が諸侯連邦を上回りました。







もう、インド統一に向けて動き出しても良いころでしょう。
カナダはデリー共和国とともに諸侯連邦とマドラス共和国に宣戦布告






一気に主力を包囲殲滅して、諸侯連邦の継戦能力と意思を奪う。

すると、領土割譲による許しを乞うてくる諸侯連邦。当然拒否。


インド統一戦争のさなか、悲しいニュースが訪れる。

ネヴィル・チェンバレン死去。







さして苦戦することなく、諸侯連邦とマドラス共和国併呑。

デリーによる統一インドができあがりました。

これによって、デリーは日本や清といった大国を上回る国力となり、アジア一の大国になります。


カナダ、ひいてはイギリス帝国にとって、良い足場ができました。





アフガニスタンでは王太子が誕生した模様。

これには、祝電を送らねばなるまい。


そう、宣戦布告という名の祝電を。
カナダ、デリー、ロシア帝国はアフガニスタンに宣戦布告




協商連合の大軍に攻められたアフガニスタンはひとたまりもなく、ロシアに屈します。

アフガニスタンはロシア帝国の属国として、生まれ変わる。


このアフガニスタン攻めは深い意味はありませんでした。

強いて言うなら、ロシアとインドの境にあるアフガニスタンを協商の影響下に置くことで、ロシアーインドの陸上連絡線を確保することでしょうか。







カナダでは空軍革新が進む。これによってイギリス亡命軍の将校たちとの対立がおこり、

宣戦布告の国民不満度上昇も合わせて、一時的に不満度が15%を超える事態にもなりました。