大川周明先生「米英東亜侵略史」(1)黒船来航
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1255.html
「ねずさんのひとりごと」から転載させていただきました。
大川周明先生の著書「米英東亜侵略史」を、ねずさんが口語に訳して書かれた記事ですが、これが大変に分かりやすいので紹介させていただきたいと思います。
以下、転載記事です。
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大川周明先生の「米英東亜侵略史」を、ご紹介してみようと思います。
大川周明先生といえば、戦後は東京裁判で前の席に座っている東条英機元首相の頭をポンとはたいた姿ばかりが強調され、あたかも異常者のようにさえ言われ続けた人です。
けれど、ボクが思うに、大川周明先生は、時代を代表するまさに当代一流の学者であるものと思います。
今回ご紹介する「米英東亜侵略史」は、大東亜戦争の開戦間もない、昭和16(1941)年12月14日から、12日間にわたってラジオで先生がご講演されたお話の速記録を、後日先生が加筆修正され、「米英東亜侵略史」と題して出版された本です。
原文は、TEXTと画像で、↓のサイトでご覧いただくことができますが、
http://www.okawashumei.net/pdf/txtview.cgi?dir=beiei_toa_shinryaku_shi&ext=ut8&suf=&open=left&editok=1&tateok=1&bouten=1&ruby=2&imode=0&usr=1&page=00
なにぶん戦時中に出版された本なので、言葉がややむつかしい。
そこで、ねずきち流で現代文に訳し、さらにすこしだけわかりやすいように手を加えて、このブログでご紹介してみようと思います。
もちろん、原書は、まさに名文です。
ボクなどが勝手に口語訳するなど、おこがましいとのお叱りを受けるであろうと思います。
けれど、まずは「わかりやすさ」を最優先したいということと、もうひとつ申し上げるならば、口語に読み下すことで、ボク自身も皆様とご一緒に勉強したいと思うのです。
おそらくご一読いただければ、まさに明治以降の日本と世界の関係、あるいは日本をとりまいた世界がどのようなものであったか、目からウロコのオンパレードです。
なお小見出しは、原著と関わりなく、ねずきちが勝手につけています。
でははじめます。
おそらく最後まで読まれると、なぜ日本が戦わざるを得なかったのかということが、明快に理解できるのではないかと思います。
最初は、ペリー来航からです。
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星と太陽の戦い
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昭和16(1941)年12月8日に、大東亜戦争が開戦となりました。
この時代、アジアにおける唯一の強国は日本でした。
欧州を代表する最強国は米国でした。
この両国が戦争を開始したわけです。
これは世界史上でみてもすごいことです。
なにせ世界の2強が直接対決をした。
冷戦中の米ソが戦争を始めたことを想像してみたら、それがいかに「たいへんな事態」だったのががわかろうというものです。
両国の国旗をみると、日本は太陽をもって、国の象徴としています。
米国は衆星をもって、国の象徴としています。
その両者の戦いは、まるで白昼と暗夜との対立を意味するようにも見えます。
もしかすると両国は、ギリシャとペルシアが、あるいはローマとカルタゴが戦わねばならなかったのと同様に、「戦わねばならない運命にあった」ということができるかもしれません。
日本は、建国三千年の間、ただ外国から文明を摂取するだけで、いまだかつて世界史に積極的に貢献するところはありませんでした。
大東亜戦争の目的は、政府が宣言したように、直接的には「支那事変のために戦われるもの」でした。
その支那事変も、戦いの目的は「東亜に新秩序を実現するため」のものです。
人を殺して奪えばよい。
強い者、武器を持つ者は、そうでない者から収奪してもよい。
人が人を支配し、国家が国家を支配する、支配者と被支配者の関係、そうしたものの一切を取り払い、人々があるいは国家が、互いの尊厳に敬意を払い、互いの独立自尊を認め、他から奪わず、平和的かつ良好な関係を構築する。
そのために、出兵せざるを得なくなった事件です。
すなわち、日本の目的としたアジアの復興は、世界新秩序実現のため、もっと言うなら、人類みんなが、いっそう高い生活を実現のためでのものです。
おそらく世界史は、この日米戦争なくして、そして日米戦争における日本の勝利なくしては、決して新しき段階を上り得ない。
では、日本とアメリカ合衆国は、そもそもどうして戦うに至ったのでしょうか。
その経緯を探ってみようと思います。
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ロシア人が来たぞ!
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男がちょん髷、女性が高島田を結って着物を着ていた江戸時代の中ごろ、にわかに欧米列強の圧力が日本に向かうようになってきました。
およそ200年前の出来事です。
この頃の欧米にあった思想は、かいつまんでいえば「世界は白人のものである」というものです。
欧米以外の世界の財、すなわち人も土地も生産物も、すべては白人の利益のためにある。
それを奪い、本国に持ち帰ることで、彼らはかつてない贅沢な暮しを享受することができたのです。
彼らはその思想と事実のもとに、いわゆる「文明の利器」をひっさげて東洋に殺到しました。
ところがこの頃の日本は、多年にわたる鎖国政策のために、一般国民は、日本の他に国があることさえ知りません。
当時の日本人にとって、「おらが国」は、自分の住む藩そのものであり、その国同士は、江戸幕府によって平和が守られていた。
ですから当時の日本人にとって世界といえば、わずかに支那、朝鮮の名前を知っているくらいです。
インドでさえも、これを天竺(てんじく)と呼んで、あたかも天空の上にあるかのように思っていた。
要するに当時の日本人は、それほどまでに海外の事情に無関心だったわけです。
ですから寛政4(1792)年に、ロシアのラクスマンが、日本から漂流した大黒屋光太夫を伴って日本との通商を求めてきたり、その後文化年間に至って、ロシア人が度々北海道にやってきては略奪を図るようになったりした事件は、日本にとってはまさに青天の霹靂です。
このため徳川幕府は、松平定信(寛政の改革で有名)が中心となって、とにもかくにもあらん限りの力を尽くして北海道の防備の方法を講じます。
同時にこのとき、日本国の詳細な地図を作ったことで有名な間宮林蔵を北海道に派遣し、大がかりな測量調査も開始した。
その間宮林蔵も、文化4(1807)年には、択捉島でロシア艦隊によって襲撃されています。
ところが文化年間がおわり、天保年間ころになると、ロシアの略奪者たちは、しばらく顔をみせなくなった。
このためかえってその反動が起こり、松平定信公は、臆病者と笑われたりする始末となっています。
騒ぐときには血まなこになって騒ぐけれど、終わればまるで忘れ果て、外国船などは来ないもののように思う。
これは今も昔も変わらない、日本人の性分のようなものです。
ともあれ、その後数十年の間は、日本はあるときは外国の侵略を恐れ、あるときはまったく国難を忘れながら、その日その日をすごしてきたわけです。
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黒船がやってきた
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嘉永初年の頃から、長崎のオランダ人がしきりに徳川幕府に向けて警告を発します。
「英国人、アメリカ人、ロシア人などが、日本に開国を迫ってくるから用心しなさい」というのです。
この警告で、幕府の担当の人々や、いちぶのオランダ学者の間には、形成が次第に切迫してきたことが知られていたのだけれど、その頃の政治といえば、総じて「何事も人民には知らせず、ただ由(よ)らしむべし」というものです。
たとえ知らしめようと思ったところで、通信機関の不備な時代ですから、国民は無論のこと、役人の大部分さえ世界の形勢について無知識ですから、いきなりそのような情報に接したところでなすすべもありません。
幕府は幕府で、もし外国船が近海に現れた場合は、「二念なく打ち払え!」という命令を諸藩に出していました。
けれど、いかに「打ち払え!」と言われても、諸藩にしてみれば、遠方に届く大砲もなく、鎖国以来巨艦の建造も禁じられ、一隻の千石船さえもなかったのです。
日本国内が、このような状態にあったとき、かねてからオランダ人が注進していた通り、日本に向かって開国を要求する外国艦船が、堂々と浦賀にやってきたのです。
黒船来航です。
嘉永6(1853)年の暑いさかりの真夏のことです。
大東亜戦争の開戦から数えて、わずかに88年前の出来事です。
黒船来航の約50年前から、外国船はしばしば日本近海にやってきてはいたのです。
けれどそのやってきた先は、どれも江戸から遠く離れた、言ってみれば辺鄙(へんぴ)な土地です。
ですから若干の先覚者にとっては、それは大きな問題であったけれど、多くの国民にとっては、風する馬牛でしかなかった。
ところが、浦賀にやってきた米国艦隊は、まさに日本国の玄関口の浦賀に錨(いかり)を降ろしたのだし、真正面から日本に開国のための条約を迫ってきたのです。
ロシアが蝦夷地の片隅にやってきたのとは、人心に与えた影響は雲泥の差だったわけです。
浦賀奉行は、ペリー来航の趣旨が、米国の国書を持参して通商、和親を求めることにあるのを知り、日本国法を説明して、浦賀では国書を受け取りかねるから、ただちに長崎に回航するよう求めます。
しかしペリーは頑として耳を貸さず、武力に訴えてでも目的を遂げると、その意気込みを示します。
そのうえアメリカの水兵は、勝手に浦賀湾内の測量まではじめた。
浦賀奉行は、日本の法は、そのようなことを決して許しませんと抗議するのだけれど、ペリーは、「自分はアメリカ国法に従うだけで、日本の国法など一向に存じ申さぬ」とうそぶいた。
この浦賀奉行の急報に接した江戸幕府の狼狽は、まことに目も当てられないものです。
あくまで国法を守ろうとすれば、すなわち戦争です。
そうなると江戸湾は封鎖される。
トラックも鉄道も幌馬車もないその頃の日本で、江戸に物資を運ぶ唯一の路が海上交通です。
それが絶たれてしまうと、江戸百万の市民は、日ならずして飢えに苦しむことになります。
そうすれば、すでに動揺しかけている徳川幕府の礎(いしずえ)は、いよいよ危険になってくる。
仮に幕府はどうなっても良いとしても、なんら防戦の準備なくアメリカと戦端を開くことは、日本の興廃に関する一大事です。
幕府は久里浜に仮館を建てます。
そして6月9日、ここでペリーからアメリカの国書を受け取り、返事は来年ということにして、いったんペリーに浦賀を引き上げてもらいます。
おそらく、幕府の役人の考えでは、アメリカという国は波濤万里の彼方の国であり、往復するには2~3年もかかるであろうから、そのうちには何か妙策も出るだろうなどと考えたのかもしれません。
ところがペリーは本国には帰りませんでした。
彼はいったん支那の上海に行き、約束通り、翌嘉永7年正月早々に、またもや浦賀にあらわれたのです。
しかも今度は、進んで神奈川湾に投錨し、幕府に向かって厳重に確答を求めた。
やむなく幕府はペリーと交渉し、長崎の他に、下田と函館の港を開くと約束します。
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八陣の備え
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嘉永6年6月9日、いよいよペリーが久里浜に上陸する日がやってきます。
ペリーは、4隻の黒船で、上陸の祝砲をドドドンと放ちます。
その轟音に驚いた久里浜の漁民は、すわ戦争だ!とびっくり仰天し、布団や仏壇などを背負って、山手の方に逃げまどいます。
一方、幕府が警備を命じた4人の大名は、古式ゆかしい「八陣の備え」を持って、ペリーの艦隊に対峙します。
「八陣の備え」というのは、各大名が漁師たちから漁船を借り集め、アメリカ艦隊を三方取り囲み、陣鐘、陣太鼓を鳴らし、法螺貝を高らかに吹きたてて、ちょうど鶏が羽を締めるように、軍艦を羽交い締めにして、備えるという、戦国時代の戦法です。
それらの船には、どれもたくさんの旗や差物を立てています。
とにもかくにも、三方から敵を囲み、敵の心を追い詰めるという構えです。
ところが、この旗や差物がよくない。
折からの風にあおられて、旗やのぼりがはためいて、船が激しく動揺する。
やむなく旗やのぼりを旗竿に巻きつけて、船舷に横倒しにしたのだけれど、おかげで艦長たち(多くは各藩の家老)が、たちまち船酔いしてしまって、うめき声をあげながら号令をかけるから、何を言っているのかわからない。
この様子を軍艦の上から望遠鏡で眺めていたペリーは、幕府に抗議し、この「八陣の構え」を解いてもらっていますが、要するにこの警備は、何の役にもたたなかったわけです。
このときの警備の様子を目撃したひとりが、次のように述べています。
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このさい、たとえ一片の風なく、十分に八陣の備えをまっとうしたとしても、いざ戦争となれば、先方は、仰々しく砲門をひらいて発砲する必要すらなかった。
ただ軍艦をもって、取り巻いている百石積みの運送船または漁船の間を縦横に操縦し、暴れまわれば、あたかも玩弄物の天神様を、すり鉢に入れて摺るように、一瞬にして我が国の警備は紛破微塵となることは疑いがなかった。
けれどペリーは、十分にこの状態を知りつつ、心を和らげ温心をもって、応接してくれた。
彼は実に寛仁大度の器量張る人物である。
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ペリーという人物
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さて、そのペリーという人物ですが、彼は安政5(1858)年に使命を果たして帰国すると、すぐに詳細な報告書を政府に提出しています。
この報告書は、後に「1853~1854年に行なわれた支那海及び日本へのアメリカ艦隊遠征顛末」というタイトルで、本となって出版されています。
実に、四六倍版六百頁の大冊です。
遠征中にこれだけのものを書き上げるだけでも並たいていの仕事でありません。
さらに、その本に書かれた彼の知識、識見、注意などを見れば、彼は疑いなく、当時の全米を代表する第一級の人物であったことがわかります。
そしてさらにその本の内容を仔細に読んでみると、当時のアメリカの是非善悪に関する考え方が、よくわかる。
ペリーは、嘉永5(1852)年11月24日に、米国ノーフォークを出発しています。
そして大西洋を横断し、12月11日には、マメイラ島に達し、翌年1月10日にセント・ヘレナ島に寄港しています。
さらに1月24日にはケープ・タウン、2月18日にはインド洋上のモーリシャス島、次いで3月10日にはセイロン島、3月25日にシンガポール、4月7日に香港、5月8日に上海、5月26日に那覇に着き、それから浦賀に来ています。
出帆してから、約8ヵ月を費して、日本にやってきたのです。
これが、当時アメリカから東洋に至る普通の順路だったのです。
ペリーはこの航海の途中で、ヨーロッパ諸国の数々の植民地に寄港しています。
彼はそこで各国の植民政策を研究し、その非人道的な点を指摘して、文中で手ひどく攻撃しています。
わけても著しいのが、イギリスに対する激しい反感です。
セント・ヘレナに寄港したとき、ペリーは、ナポレオンが幽閉されていた見すぼらしい家を訪ねています。
そして仮に敵とは言え、古今の英雄に対してこのような冷遇をするとは何事か、と義憤をもらしています。
当時のイギリスは、ナポレオンが5年間も起臥して居た家を、家賃を取って百姓に貸し、その百姓はナポレオンの使用して居た部屋の1つを、なんと厩(うまや)にしていたのです。
またイギリス植民地統治の残酷に対しても、これを酷評しています。
このことを後の米英の関係と対比してみると、まさに今昔の感に堪えないのだけれど、当時のアメリカというのは、フランスの助力でようやく独立してから、まだわずか6~70年、イギリスと戦ってから3~40年経ったばかりです。
ですから後年と異なり、当時のアメリカは、大いなる敵意と反惑を、イギリスに対して抱いていたのです。
ただし、ペリーは、イギリスの侵略主義を非難すると同時に、正直に自国の非をも認めています。
すなわち、我々米国も、メキシコやその他の国々に対して道徳に背くようなことをした。
もっとも彼は、それは「国家の必要上やむを得なかったこと」とも書いている。
ペリーは、日本に来る前に、実に丹念に日本、及び支那の事情を研究しています。
彼は、日本人が高尚な国民であること、これに対するには、あくまで礼儀を守り、対等の国民として交渉しなければならないと書いています。
すなわち、日本に対しては、オランダのような卑屈な態度を取ってはならないし、またイギリスやロシアのような乱暴な態度をとってもいけない。
どこまでも礼儀をつくして交渉し、やむを得ないときだけ武力を行使するという覚悟で、日本に来たのです。
同時に、来日する前の時点では、日本を相手に戦争をする意図を持たないならば、はたして日本が開港の目的に応じるかは疑問、とも書いている。
このことは、1852年12月14日付で、マディラ島から海軍長官に宛てた手紙の中に明記されている。
そしてもし、日本が開国に応じないのであれば、日本の南方にある小笠原諸島か、琉球を占領すべしと建策しています。
かような次第で、ペルリは実に現実主義的で立派な人物であり、かかる人物が艦隊司令官として日本に来たことは、日米両国のために幸運であったといえます。
そしてこうした人物を輩出した当時のアメリカという国は、建国の理想を失わず、道理と精神とを尊ぶことを知っていた国でもあったわけです。
この点は、ただ黄金と物質とを尊ぶ国に堕落して行った後年のアメリカとは、大きく異なる点であったといえます。
≪大川周明「米英東亜侵略史」(2)へ続く≫