1942年6月28日にドイツが発動したブラウ作戦は初動順調に動き、ソ連主力は撃滅されたと勘違いしたヒトラーは南方軍集団をA軍集団とB軍集団の二つに分割





A軍集団→カフカース地方の占領

B軍集団→スターリングラード方面の占領

このどちらも、戦力からして明らかに過大すぎる目標を与えてしまいます。

この愚策は前線に影響を与え、戦力の決定的不足により進撃は即座に停滞。



A軍集団はカフカース山脈前面で攻勢を食い止められ、もはや一歩も前進がままならなくなります。

ドイツが目指したバクー油田はソ連の後方に保たれ、この時点でブラウ作戦は失敗に終わったも同然の状況となりました。



ヒトラーはこれを補うために、B軍集団に是が非でもスターリングラード、ひいてはアストラハンを占領させるために、補給と戦力の優先を行います。



ブラウ作戦発動から約3ヶ月後の1942年9月

B軍集団のうち、第6軍と第4装甲軍がスターリングラード市を包囲します。




ヒトラーとしては、自らの戦力分割によるブラウ作戦失敗を、スターリングラードの攻略で取り返したい。

スターリンは、自分の名前が冠されたこの都市を落とすわけにはいかない。



この両者の思惑によって、スターリングラード市は最大級の市街戦となりました。



第6軍指揮官

フリードリヒ・パウルス上級大将



スターリングラードを包囲したドイツ軍は、まず1600機による大爆撃を実行。

これによって、60万人の市民のうち4万人が死亡したとされますが、爆撃は結果的に市街を瓦礫の山にしてしまい、ソ連軍のゲリラ的攻撃に苦しめられます。



包囲から10日後、ドイツの第6軍と第4装甲軍はスターリングラード市街への総攻撃を開始。

市街戦では主に戦車などの機甲師団が運用し辛いうえ、先の爆撃によって市街が瓦礫となっているために、歩兵戦闘が主となりました。


ドイツはこれまでの疾風迅雷の電撃戦術ではなく、歩兵と戦闘工兵による諸兵科連合『突撃悌隊』(シュツルム・シュタッフェル)を編成して市街戦を戦い、対するソ連も市街地を活用し、建物を要塞と見立ててミドルレンジでの反撃戦闘を行いました。



こうした戦いはネズミの戦争(ラッテン・クリーク)と呼ばれています。






スターリングラードの戦いは、初期に参加した兵力より、死者の数のほうが多いという話が有名で、ドイツの第6軍は捕虜を取らずに投降したソ連兵も射殺し、ソ連軍は前線の兵士が逃げるのを防ぐために督戦隊を設置し、逃げ出した味方歩兵を容赦なく撃ち殺しました。スターリングラードに投入された兵士は、ほとんどがその日のうちに命を落としたそうです。


つまり、『殺すか殺されるか』、『進むも戻るも死』体現された戦いだったといえます。



市街の戦いが始まってから約ひと月後の1942年10月


ドイツ軍は市街の9割を占領し、残るはソ連第62軍司令部のある市街北部のみとなりました。

まさにドイツの市街攻略、攻防の勝利は目前と迫ったのですが、ソ連は瓦礫の山に身を隠した上に、狙撃を繰り返してドイツ司令部の混乱をもたらします。




ドイツ第6軍司令官フリードリヒ・パウルスは作戦『ヒューベルタス』を発動。スターリングラードの完全攻略を目指しました。しかし作戦中に11月中旬に突入し、ロシアの厳しい冬の到来となり、-20度にも達する状況下でパウルス率いる第6軍の攻勢は頓挫。


第6軍はヒトラーの厳命もありスターリングラードの攻略を継続するのですが、そのさなか、ソ連が9月より準備してきた『天王星作戦』が始まるのでした。