スターリングラードの攻防戦を、少しだけ
取り上げてみます。
これは、1941年6月~1945年5月まで続けられたドイツとソ連の戦い=独ソ戦の中、
1942年7月~1943年1月の間に、ソビエト連邦のスターリングラード市街をめぐってドイツとソ連が戦いました。これが有名なスターリングラードの攻防です。
まず、ドイツがこの都市を攻めることになった経緯を簡単に記しましょう。
1941年6月22日午前2時
ドイツは航空隊による先制奇襲攻撃を敢行。ドイツの攻撃で、ソ連は4000機余りの航空機を一挙に喪失したことにより、ドイツは制空権を掌握。
バルバロッサ作戦の開始です。
この制空権掌握を皮切りに、ドイツは電撃的に侵攻し、ドイツの大勝利によって独ソ戦は幕を開けました。
途中、ソ連の戦車T-34、KV-1,2に苦戦を強いられたものの、戦術でソ連を凌駕するドイツ軍は、これを撃破。
開戦から1カ月ちょっとの間で、ドイツ軍はソ連の首都モスクワから360㎞の距離に位置するスモレンスクを攻略。この過程で、少なくともソ連軍は50万以上が捕虜となっています。まさに大勝利です。
ある将兵は、『ロシアとの戦争は2週間で決した』と自信満々に言い放ち、勝利を確信したといいます。
活躍したドイツ将兵の面々。
(階級は作戦当時のもの)
ドイツ軍総参謀総長
フランツ・ハルダー元帥
ドイツ中央軍集団指揮官
フェードア・フォン・ポック元帥
ドイツ南方軍集団指揮官
ゲルト・フォン・ルントシュテット元帥
ドイツ北方軍集団指揮官
ヴィルヘルム・フォン・レープ元帥
第2装甲集団指揮官
ハインツ・グデーリアン中将
第4軍指揮官
ギュンター・フォン・クルーゲ元帥
第56装甲軍団指揮官
エーリッヒ・フォン・マンシュタイン大将
緒戦大勝利はドイツを大きく自信づけましたが、一つの疑問が生じました。
緒戦大勝利によって、大量の捕虜を獲得し、20万人以上のソ連兵は敗走した。更にソ連軍が置いて行った兵器は3000両以上の戦車など、膨大なもの。
ソ連は主力軍が壊滅し、戦争継続は困難なはずだ。...なのになぜ降伏しない?
なぜ前線のソ連兵は数を減らさないのだ?
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短期決戦を狙ったドイツの思惑は完全に外れ、ソ連の望むところである長期戦の泥沼にはまりつつあったドイツは、早急にソ連との戦争を勝利で終わらせるため、ソ連の首都・モスクワ占領を目的としたタイフーン作戦を発動しました。
ところが、これは秋季のに驟雨による道路の泥濘化、-50度にも達する冬季の到来によってドイツの攻勢は頓挫。ソ連はこの好機を利用し、大反撃に出ます。
ドイツはなんとか、モスクワまであと8㎞にまで迫ったものの、これが限界。
ソ連の反撃によって、引き潮のように押し戻されて行きました。
結果的にドイツは
①ソ連主力を殲滅することで講和する
というのは見立てそのものが誤っていたし
②首都モスクワを攻略し講和する
これは作戦自体が失敗に終わってしまい、独ソ戦は戦争は長期化の様相を強めていきます。
ドイツの退却を見たソ連軍は逆に攻勢に出ましたが、ドイツ軍に返り討ちにされ、
両軍が攻めあぐねる中、ドイツでは『ブラウ作戦』が立案されます。
ブラウ、とはドイツ語で青を示す言葉です。
ブラウ作戦はソ連邦のカフカース地方(現在のアゼルバイジャンやチェチェン共和国があるあたり)に侵攻し、ソ連の経済基盤を失わせると同時に油田を確保して、ドイツの補給事情を賄おうというのが最大の狙いです。
これに先立ち、1942年5月までに、マンシュタイン元帥率いる第11軍は、作戦『トラッペンヤークト』『シュテアーファング』を発動。クリミア半島を制圧します。
1942年6月28日 ブラウ作戦発動。
ドイツとソ連の国境から、約1900㎞もの彼方に位置するバクー油田を目指すドイツの長征開始です。
当時、ドイツでは広大な戦線を、3つの軍集団に分けて維持していました。
つまり北方軍集団・中央軍集団・南方軍集団で、ブラウ作戦は南方軍集団が中心となって実行されています。
作戦発動から1カ月の間に、ドイツはソ連軍を退け、順調に進撃。
この順調さに気を緩めたヒトラーの進言によって、南方軍集団をA軍集団とB軍集団の二つに分割し、A軍集団を予定通りカフカース占領に、B軍集団がスターリングラード方面に向けた進撃をすることになりました。
これにはマンシュタイン元帥らが反対するも、『将兵諸君は戦争経済を御存じでない』と、ヒトラーは強固に退けます。
A軍集団指揮官
ヴィルヘルム・リスト元帥
B軍集団指揮官
マクシミリアン・フォン・ヴィアクス元帥
この時点で、ヒトラーの失敗としては
①ソ連は敗走ではなく秩序だった戦術的撤退をして、その戦力の温存と集中をしていたこと
②戦力分散の愚。ヒトラーはソ連軍主力が撃滅された前提で戦力を分散した
これがブラウ作戦失敗の大きな要因といえます。
そもそも
カフカースという遠方の地へ赴き占領するという作戦自体が非常に危ういもので、ドイツが割いた戦力も明らかに不足していました。
カフカース山脈=カフカースの入り口までたどり着いたA軍集団は、作戦『エーデルワイス』を発動。
日平均で50㎞の進軍をしていたA軍集団は、8月10日にカフカース山脈前面に位置するマイコフ市を攻略。翌日、クラスノダールを占領。作戦はこのまま順調にいくかに思われました。
しかし、カフカース山脈を前に、これまで戦術的撤退をしてきたソ連軍は本格的に防衛戦闘を開始。
ソ連軍は高地、山岳などの地形を大いに活用したことでドイツ得意の電撃戦術は通用せず、膨大な出血を強いた消耗戦になってしまったのでした。