いうまでもないと思いますが、元寇とは1274年文永の役、1281年弘安の役と、2度にわたる元の日本侵略=蒙古襲来です。
さて、この元寇ですが教科書によっては『2度にわたる暴風雨で元の侵略は失敗した』など、きわめて簡略に済まされています。
[神風が来たおかげで助かった日本は、幸運だった]
『元の侵略を退けることができたのは運が良かっただけ』
戦後日本の学校教育で教わってきたこの認識は、はたして正しいのでしょうか?
これを考えてみます。
この中で出てくる国は三つ。日本と高麗と元です。
まず元とは、何かについて簡略に記述します。
1206年にチンギス・ハンは、モンゴルの諸部族を統一しました。
その後、モンゴル(蒙古)は幾度かにわたるヨーロッパ遠征をおこない、東欧からアジアにまたがる大帝国を築きあげました。
これが俗に言うモンゴル帝国です。
モンゴル帝国の領土は最大で3000㎢にも上り、その支配領域は日本の400倍に近い大きさまで広がりました。
当時の中国大陸、ならびに朝鮮半島も、モンゴル帝国の支配下となっていきました。
1234年、中国大陸の北東部に存在した女真族の国、金が滅亡。
1259年、朝鮮半島の高麗が、モンゴル帝国に服属。
1260年、チンギス・ハンの孫にあたるフビライ・ハンは、首都を大都(現、北京)へ移し、国号を中国風に元としました。
この元は、日本にもその牙を向けてきます。
当時の日本は鎌倉時代。
1268年、元の使節が日本へやってきます。
これは、日本との友好を望むものではなく、元に対し朝貢を求めるもの。
わかりやすく言うと、元の子分になれ、というものです。
しかし、鎌倉幕府も朝廷も結局これを黙殺しています。
北条時宗が第8代執権に就任したのもこの時期でした。
元の使節は何度かに分かれて日本にやってきましたが、日本は元への朝貢を拒否したため、元は日本の征討を決定します。
1274年(文永11年)
文永の役。元の最初の日本侵略です。
3万にも上る軍勢が、対馬ならびに壱岐を攻めて現地民を虐殺したのちに、九州北部の博多湾に上陸しました。この軍勢は、元に服属した高麗の軍隊も一緒になって攻めてきました。
つまり文永の役で日本が戦った相手は、元・高麗軍です。
モンゴルに苦戦する日本は、暴風雨の到来に助けられてこれを退け....と教科書では教わります。
ところが、文永の役があったとされる時期は、現在の暦に直すと11月後半にあたります。
よく、元が攻めた時期はたまたま台風が多いころだった、という誤解がありますが、台風が多い時期は10月までで、11月後半に、船が難破するほどの暴風雨が吹き荒れるというのは考えにくいのです。
これについて、日本側の資料を見ていきます。
鎌倉時代中期~後期に書かれたといわれる八幡愚童訓(?年)
『夜明ケレハ廿一日之朝、海之面ヲ見ニ蒙古之舟共皆馳テ帰ケリ。
是ヲ見テコハ如何ニ此方ハコナタヘ彼方ハカナタヘ後合ニ落ル事、コハ何事ゾ、今日ハ九国ニ充満シテ人胤モ無ク滅ビナント終夜歎合シニ、如何ニシテ角ク帰ラン。
是者只事ナラヌ消息、泣笑シテ色メキテ人心付キニケリ。』
この中には、一夜あけると敵が忽然と消えていた、という記述がある一方、台風が来たとは一言も書かれていません。
一方で、元と高麗の資料を読みます。
『高麗史』(1451)
『與元都元帥忽敦右副元帥洪茶丘左副元帥劉復亨、以蒙漢軍二萬五千、我軍八千、梢工引海水手六千七百、戰艦九百餘艘、征日本、至一岐島、撃殺千餘級、分道以進、倭却走、及暮乃解、會夜大風雨、戰艦觸岩崖多敗、金侁溺死』
高麗史の中では、夜間に暴風雨が吹き荒れ多数の艦船が転覆したと書かれています。
ところが、『元史・日本伝』(1369)では
『至元十一年冬十月、入其国、敗之。而官軍不整、又矢盡、惟虜掠四境面帰』
とあります。これはどういう意味かというと、
『軍の統率も取れない、矢も尽きた、こりゃ駄目だ。撤退しよう』という意味で、台風が来たから撤退したとは書かれていないのです。
元と高麗で、なぜ記述にバラつきがある理由はハッキリとはしません。
ただ、高麗は確かに日本侵略を元に唆しましたが、自らが赴いての日本侵略には乗り気ではありませんでした。
コミカルに表現すると、
高麗王『元皇帝様、日本には金がいっぱいあります。ぜひ侵略しましょう。』
元皇帝『よし、お前たち高麗も行け』
高麗王『えっ!?』
という流れで、もともとやる気が低い高麗のことです。
撤退の理由を天候のせいにしたかった、というのは可能性の一つとして考えられます。
高麗としては、『思いのほか、日本の抵抗が激しくて勝てませんでした』と、正直に元皇帝フビライに言えるはずはありません。なら、都合良く風雨が来たので、これがすさまじい暴風雨だったことにして、撤退しよう、としたのかもしれません。
元・高麗軍が撤退した真の理由として、矢の枯渇が非常に重要な要素として考えられます。
当時の元、モンゴル人の強さの秘訣とは、
①騎馬による機動戦術
②1会戦で100万本単位も消費する矢
※別冊宝島社『いい国作ろう なんどでも』より
この二つでした。
島国への上陸となると、騎馬戦術は意味がありません。上陸しない限り馬は使えないからです。
では、上陸のために圧倒的な矢を使って日本を攻撃するわけですが、鎌倉御家人は矢戦で引けを取りません。日本は、元・高麗軍の想像以上に手ごわかった。
日本の熾烈な抵抗の前に後退を始めた元・高麗軍は、指揮官の一人である劉復亨が討たれたこともあり、撤退をしていきました。
元軍はともかく、半強制的に駆り出された高麗軍は、とにかく撤退の口実がほしかったはずです。
矢も尽きたし、元軍の指揮官が死んでしまったしで、これを暴風雨のせいにしてしまおう、と考えて高麗史に記述された、というのは、十二分にあり得るのです。