前回の続き。
1939年1月
世界大戦がはじまるまで残り8カ月。
ミュンヘン協定によってまんまとチェコスロバキアのズデーテン地方を獲得したヒトラーは、
イギリスとフランスの弱腰をみて、さらなる領土獲得を図ります。
チャーチルが痛烈に批判したミュンヘン協定ですが、もしもこの時、イギリスやフランスが戦争も辞さない態度で出ていれば防げた可能性はあったはずです。
チェコスロバキアは、イギリスやフランスに見捨てられた結果、世界地図から姿を消すことになりました。
今回はハンガリーとの間でチェコスロバキアを分け合う。
そして大戦勃発前にハンガリーを枢軸に引き込む。
1939年3月
リトアニアのメーメル割譲要求。
メーメルは歴史的にも多数のドイツ人が居住し、しかも新ナチ政党が力を持った結果ドイツの帰属を主張しだしました。この動きを鎮静化させるため、リトアニアはメーメルをドイツに返還することで合意。
代わりにドイツとリトアニアの間で不可侵条約が締結されています。
遠いアジアでは満州とソ連の国境問題、ノモンハン事件が発生した模様。
我々の歴史ではハルハ川の戦いで知られるこの紛争は、日本の譲歩によって集結。
紛争後の国境線を見れば日本側の一方的敗北であることが明白であり、ソ連の脅威を再認識させるには十分な出来事でした。
ミュンヘン協定以後、全く領土的野心を引っこめようとしないドイツを見かねたイギリスは、ポーランド独立保障声明を発表。これ以上の領土拡大を図るなら、連合国は戦争も辞さない決意を見せました。
ヒトラーは、これも連合国のブラフにすぎないと判断。
今まで散々尻込みしてきたイギリスやフランスが今さら動くわけがないと思っていたそうです。
1939年8月24日
モロトフ・リッペントロップ協定締結。
一般的に独ソ不可侵条約として知られるこの協定は、密約のほうが重大な意味を持っており、
かいつまんで言えば、東ヨーロッパの領土をドイツとソ連で二分する取り決めであり、両国の侵略を相互に承認する協定でした。
犬猿の仲として知られたドイツとソ連が不可侵条約を結ぶなど余りにも不自然であり、当時から密約の存在は考えられていました。
1939年9月
ソ連との衝突の憂いが無くなったドイツは、ポーランドに対しダンツィヒ自由市のドイツ領編入を要求。
ドイツの強硬なる恫喝にもポーランドは動じず、戦争になりました。
ドイツはポーランドの先制攻撃をでっちあげ侵略の正当性を得ようとしましたが、イギリスやフランスには通じず、9月1日より世界大戦の始まりになりました。
よく言われるように、ポーランドは騎兵で戦車に向かい惨敗した、というのは誤解があります。
ただポーランドは騎兵にこだわり続け、近代的な軍隊を持っていなかったのは事実ですが。
当然ながら馬では戦車に敵いません。これは誰がどう考えても分かります。
そこでポーランドは騎兵による側面攻撃を繰り出し、ドイツの機甲師団に混乱をもたらして撤退に追い込んだこともあったそうです。
しかし、結局自力で勝るドイツ機甲師団には勝てず、更には対ドイツ戦線の反対側で、ソ連がポーランド侵攻を開始。
勇敢にも戦いを挑んだポーランドは力尽き、ドイツとソ連に分割される形で世界地図から姿を消しました。
今回のプレイでは10日でポーランドを併合。
上手い人だと一週間ぐらいで終わらせてしまいます。
大戦勃発に合わせ、北欧は相互防衛条約を締結した模様。
これはちょっとめんどくさい...。ヴェーゼル演習作戦を始めると、スウェーデンも敵になるということ。
スウェーデン、デンマーク、ノルウェーが協力したとしてもドイツの足元にも及ばないけど、少し面倒なので北欧作戦は見送ることに。
とにかくポーランド戦が終わったのち、1か月の再編期間を設けて次はフランス。
と思っていたら、ジークフリート線を越えてフランスがドイツ領に侵攻。
マジノ線のフランス軍は動かないと思っていただけに、ちょっと面食らうが、
直ちに援軍を差し向け、ジークフリート線とマジノ線を膠着状態に戻します。
1939年9月の大戦勃発から10カ月余りの間、ドイツ、イギリス、フランスの間ではこう着状態が続いて『まやかし戦争』と呼ばれるほど、本当に戦争しているのか不思議な状態だったそうです。
今回のプレイではこの期間を無駄にはせず、即座にフランスに攻め込みます。
フランス方面攻勢開始。
ただフランスの分厚い防御壁マジノ線は力押しで突破するには相当な流血を必要とし、兵力に限りあるドイツとしては、可能な限り消耗は避けなくてはなりません。
ではどうするのか?と言えば史実通りに行えばよいだけです。
ベネルクスよりマジノ線を迂回する、これは常套手段。
堅牢な要塞は、迂回し包囲して補給を断絶する。のち包囲殲滅を図るのは戦術の初歩です。
とりあえずベルギー、オランダに宣戦布告。ここら辺は通り道にすぎないため、サクッと侵攻します。
ベネルクスより、フランスのアルデンヌの森を電撃的に侵攻した戦い、これをドイツの新戦術『電撃戦』と呼びました。
(余談としてベネルクスとは、ベルギー、オランダ(ネーデルラント)、ルクセンブルクのことを指します)
機動力の高い戦車、自動車部隊を主軸とし、また航空支援によるスピード重視の機動戦術。
それが電撃戦です。
多少の数的不利でも、1939年度ではフランス陸軍程度ではドイツ軍の敵ではない。
それまで、戦車は歩兵の支援に使うもの、という認識が一般的でした。
ところが【攻勢の主役として戦車を使う】という画期的な考えを発案したのがドイツのハインツ・グデーリアン。
第2次大戦のころには、戦車性能は全大戦のころとは比べるべくもないぐらい格段に向上しており、十分攻勢の主役足りうる、との先見の明を持っていたのです。
韋駄天ハインツとも冠されたグデーリアンが編み出した、この今までにない新戦術は世界の度肝を抜き、史実のフランスはたったひと月でドイツに屈することになります。
カレー海峡ではイギリスの強力なロイヤルネイビーが見える。
さすがに、これを出し抜いてイギリス本土に上陸は当面難しい。なのでイギリスは後回し。
ドイツの新型戦闘機、フォッケウルフFW-190A。
1941年より生産が始まったこのフォッケウルフは、メッサーシュミットの上位互換型。
イギリスとの間で幾度となく制空権をめぐって争った航空機で、イギリスのスピットファイアMk.Ⅴを圧倒しました。
FW-190A型は改良が繰り返された機体で、先行量産型A-0から、41年に不具合を修復したA-1型の生産が開始。
のち武装を強化したA-2型が開発され、エンジンを換装したA-3型が42年に生産。 同年にA-4型も開発されています。
フォッケウルフFW-190Aは最終的に2万機ほど生産され、最後の改良型A-8型はそのうち6500機ほど生産されたそうです。
今回のプレイでは1939年に実用化を果たしています。
1939年10月下旬
パリに王手をかけ、マジノ線の包囲を図ります。
1939年も11月が近いため、冬季到来の前に決着をつけたいところ。
1939年11月
フランス・ヴィシー政権成立のイベント発生。
プレイヤー操作だとこれを許すメリットはあまりないですが、ドイツの傀儡フランスとして一応成立させときます。
フィリップ・ペタンのヴィシー政権。
ペタンは、第1次大戦の、ヴェルダンの戦いの英雄として知られています
また、ヴィシー政権時の国名は『フランス共和国』ではなく『フランス国(エタ・フランセ)』と言いました。
ナチスドイツの正式な国名が『ドイツ国』(ドイチェス・ライヒ)であったので、似たような名前ですね。
フランス共和国は亡命政権と化し、欧州に残るはフランス国という状況になっています。
フランス(ヴィシー政権)はあくまで中立国で、枢軸国の枠組みには入りませんでしたが、しかしドイツのと戦争協力を余儀なくされ、歴史的には『ナチスに与した敵対勢力』という見方が主流でした。
非常に有名なフランスのスンスンおじさん。
フランス首都、パリをドイツ軍が跋扈する状況で涙した人物です。
ネタとしてよく取り上げられますが、しかし首都を敵軍に明け渡すという気持ちは想像するに余りあります。日本の東京が、中国人民解放軍に占領されたと想定すると、この人物の気持ちが多少分かるかもしれませんね。
パリの灯が再び灯るのは、1944年6月アメリカのノルマンディー上陸を待たねばなりませんでした。
とりあえず、今プレイでは1940年前にフランス共和国を欧州から追放し、新ドイツのフランスを建てることができました。
フランスを欧州から追い出したとなれば、次はソ連の番です。
史実では1941年6月に始まりましたが、今プレイでは1940年中に対ソ連と戦いを始めるので、ソ連国境沿いに集結をさせる。
対ソ戦が始まる前に御戦車研究も進展させます。
1940年1月
Ⅳ号戦車を実用化。
Ⅳ号戦車は大まかに分けて長砲身と短砲身の2種があり、画像のは長砲身タイプです。
ソ連侵攻=バルバロッサ作戦を始めたドイツの前に立ちはだかったのが、ソ連の戦車T-34でした。
T-34は、ドイツのあらゆる戦車を上回る性能を誇り、ハインツ・グデーリアンをして『我々の理想とする戦車設計こそソ連のT-34』と言わしめるほどの傑作戦車でした。
今でも、戦車の傑作を語るとき、必ず名が挙がるのがT-34だったりします。
そのT-34に対抗するため、創りだされたのがⅣ号戦車・長砲身。
これまでの戦車ではT-34の装甲をぶち抜けないため、装甲貫通力に優れた換装をして、完成したのがF型。後G型となり、Ⅳ号戦車は文字通りドイツにとっての主力戦車になりました。
Ⅳ号戦車長砲身は、ドイツにとって初めてのT-34に勝てる戦車であり、史実では総計で9000両ほど生産されています。
ちょっと先ですが、1942年中ごろにⅤ号戦車パンターが完成。
。
独ソ戦前、戦車開発の第一国を自負していたドイツにとって、ソ連の中戦車T-34、『怪物』と言われた重戦車KV-1に衝撃を受け、これらを打倒できる性能を持つ戦車を開発することは急務となります。
Ⅳ号開発以後、T-34やKV-1を超える性能を持つ戦車が求められ
そこで開発されたのが、30トン級のⅤ号戦車パンター。豹の名を冠す戦車です。
T-34の影響を受けた結果、傾斜装甲になったⅤ号戦車パンターは1942年より開発が始まり、1943年の年初より、初の量産型であるD型が900両ほど生産。
次にA型が2300両ほど生産され、この規格が決定版となり次に開発されたG型は約3000両生産。
Ⅴ号戦車パンターは、総計で約6000両ほど生産されています。
最大で40トンを超える重量ながら、速度55km/hと高い機動力を誇りました。
投入当初は数多くの不具合が生じたものの、改良したのちは非常に強力な戦車として活躍。
1944年11月のアルデンヌ攻勢では、高い性能のⅤ号戦車が連合軍を苦戦させています。
試作型のみとしてパンターⅡ、駆逐戦車のヤークト・パンター、戦車回収のベルゲ・パンター等に派生しました。
1940年3月
対ソ戦準備完整。
といっても、この時期は冬季。ロシアの厳しい大地は
10月ごろに始まる秋の驟雨
冬将軍と呼ばれるロシアの厳しい冬
春に到来する雪解けによる泥濘
(主に10月~5月初旬)
以上の時期は、攻勢側にはきわめて不利な季節。
従って、ロシアを攻めようとすると、時期的には極めて限られてしまうのです。
かのナポレオンですら阻んだロシアの冬将軍を舐めてかかってはいけません。
一応、このゲームならゴリ押しで行けなくもないですが、リアリティを出すため春の雪解けが終わってからの攻勢にします。具体的には5月ごろに。
ちなみに、1939年末に起こった冬戦争では、
北欧相互防衛条約の締結→フィンランドの加盟→冬戦争の勃発の結果
北欧連合 vs ソビエト連邦
という構図に。
超大国ソ連に、一致団結し立ち向かう涙ぐましい北欧の様子。
史実では頑として中立を貫いたスウェーデンが最前線で戦うという意外な光景である。
もはや冬戦争というよりかは、第2次・大北方戦争とでも名付けた方が適当な構図の気がする。
いかんせん地力が違いすぎる故、北欧のソ連併吞は時間の問題。
これを指をくわえて見ていると、北欧は共産主義に染まってしまうことは間違いない。
それはドイツとしてはよろしくないので、冬戦争の続く間に対ソ宣戦をする。