ていていた~氏が製作されたFLASH『大日本帝国の最期 第壱幕』の続きです。
大日本帝国の最期 第壱幕
1941年9月、もはや外交は諦め戦争決意すべきだという気運が高まる中、御前会議の中で突如、昭和天皇が御発言あらせられました。
昭和天皇は明治大帝の和歌を詠まれ、平和への願いを強く述べられたのです。
明治大帝御製の和歌は『世界人類みな兄弟だと思うのに、何故争いが起こるのだろう』という思いを読み上げた歌とされています。
これを聞いた閣僚は、外交妥結を再度試みます。
近衛首相はアメリカへ首脳会談をもうけ、日米の誤解を解こうと、アメリカに働きかけました。
近衛首相の熱意を感じ取ったグルー駐日大使は、早速これをアメリカ本国へ取り次いでくれました。
ところが、アメリカからは返答が届かず、やっと届いたものは日本の非難に終始していました。
それもそのはず、この時点ですでにアメリカは戦争決意をしており、日本と外交妥結するつもりなど最初からなかったからです。
首脳会談の前に、予備会談をもうけよう、というのは完全な時間稼ぎです。
時間はアメリカの味方で、
経てば経つほど、アメリカの軍備は整い、また日本の資源は枯渇してゆく。
戦争するならば、遅ければ遅いほど日本が不利になるのです。
対アメリカ外交が遅々として進展しない状況で、内閣の中でも意見が割れ、見かねた近衛首相は内閣を総辞職。第3次近衛内閣が終了し、変わって成立したのが東條内閣でした。
東條英樹陸軍大臣は、知る人ぞ知る主戦派です。
その東條を閣僚が支持し、昭和天皇が拝命したというのは、アメリカではいよいよ日本が戦争を決意したと受け取りましたが、実際はそうではありませんでした。
東條は天皇に対し極めて忠実な人物で、天皇が平和的解決を望むからこそ、天皇に忠実な東條はその意図を汲んでくれるだろうという狙いがあったのです。
実際、東條氏は首相就任後は180度転換し、戦争回避に奔走しています。
10月開戦準備を定めた、先の帝国国策遂行要領を白紙に戻し、今一度外交に心血を注いでみる決断を下したのも、東條首相でした。
東條内閣発足後、新たな譲歩案として『甲案』
それもアメリカに拒否された場合として、原状回復を図る『乙案』
の二つが決められ、アメリカに提案されています。
11月30日を外交期限とし、決裂しだい12月より戦争を行うという決断も下されました。
これが史実通り、12月1日の御前会議で戦争決定となりました。
日本としては、一刻の猶予もありませんでしたから、何としてでもアメリカと外交妥結をしたかったのでしょう。2つの案の内容を見ると、それが伺えます。
ところで、戦時中の日本の暗号がアメリカに解読されていたことは認知されていますが、戦争する前の外交暗号がアメリカに解読されていたことはあまり知られていません。
当時の日本の暗号機、97式欧字印刷機が何故解読されていたのかは今もハッキリしていません。
日本の内部にアメリカのスパイがいたとか、ソ連のスパイがいて流していたとか、いろいろな説があります。
ともかく、これによってアメリカは外交の主導権を常に握り続けていました。
日本が次にどのような提案をしてくるのか、これが分かっていたわけですから、日本は最初の情報戦争で敗北していたのです。
アメリカはハルノートを提出したのち、日本が外交を切り上げ戦争決意したことも当然読んでいました。
1941年11月24日には、単冠(ひとかっぷ)湾に日本の機動部隊が集結。
ハワイ作戦の為、準備を完整させています。
ハルノートが手交されたのは、この2日後でした。その同日、日本機動部隊は真珠湾を目指して、単冠湾を出港しました。
日本のハワイ作戦、真珠湾奇襲攻撃。
空母の集中運用による、絶大なる攻撃力はこの時証明され、世界は『空母』と『航空機』の重要性を認識したのでした。
しかし、日本の意図は達成できたとは言い難く、戦術的には成功であるが戦略的失敗だったのが真珠湾だったのではないでしょうか。