引き続きていていたー氏が製作されたFLASH、『大日本帝国の最期 第壱幕』です。








日本の北部仏印進駐の前後、日独伊三国同盟成立。

なぜ日本はドイツやイタリアと手を結んだのか?と言えば、決して日本が独裁国家だったからではありません。ていていた~氏の説明にもあるとおり、日本がナチズム、ファシズムに染まった訳ではないのです。



実際、ドイツ国のアドルフ・ヒトラー、イタリア王国のべニート・ムッソリーニのような独裁者は日本にはいませんでしたから、日本は独裁国家ではありませんでした。

天皇独裁、という意見もありますが、今も昔も天皇陛下は権威の象徴で、実質的には権力者ではありません。




この当時、対アメリカ交渉は明らかに行き詰っており、ドイツやイタリアに接近することで交渉を有利に進めようという意図がありました。

松岡洋右外務大臣は、こののちソ連とも提携すべきとして日独伊ソ四国同盟を主張していますが、これはドイツの対ソ開戦によって夢想となっています。



では、日独伊同盟で対アメリカ交渉は有利になったか?というと残念ながら完全に裏目に出てしまいました。アメリカは、本同盟で『日本が民主主義の敵になった』と認識し、こののちのアメリカの態度はさらに硬化していったのです。









日本の北部仏印進駐に反発したアメリカは、強硬的に反発。

交渉によって進駐した日本軍に対し『日本がフランスを恫喝した』と言いがかりをつけ貿易制限措置をとってきました。




日本、ドイツ、イタリアを仮想敵国としたレインボー作戦計画もこの時期に建てられています。


1940年6月を回るとフランスがとうとうナチスドイツに降伏。もはやイギリス単独ではナチスドイツに勝つことはできない中、連合国ではアメリカの参戦が望まれるようになります。


しかし厭戦気分ただようアメリカ国民を説得できるほどの材料がないため、アメリカ政府は参戦したくてもできない状況でした。そのため、あの手この手で戦争に介入する口実を求めたのです。

必要以上に日本に対し挑発を繰り返したのも、その一環といえます。









1941年の日米交渉は、知っての通り決裂しています。

ていていた~氏のFLASHでは、その過程を要点を踏まえたうえで進行していくので、分かりやすいと思います。





日ソ中立条約

松岡外務大臣が四国同盟によって、対アメリカ交渉を有利に進めようとした一環として、ソ連への歩み寄りという意味をもって締結されました。


ところが、この2カ月後にドイツとソ連は戦争状態に。

ソ連にとって本条約は、『ドイツを倒すまでの極東の保険』にすぎませんでした。


当時のソ連指導部はドイツと日本に挟撃されれば一たまりもないと考え、日本との間に中立条約をもうけたのです。日本は利用されたに過ぎないといえます。






このころに連合国による対日包囲網、いわゆるABCD包囲陣が敷かれ、日本の貿易交渉は非常に難航しています。切羽詰まった状況に焦った日本は、援蒋の遮断に加えて資源を求め、南部仏印へ進駐します。

これに対しアメリカは即座に反発。とうとう、石油の全面禁輸をされてしまうのでした。


石油がなくなれば、アジアの先進工業国、日本は国家の生存が不可能になります。


海軍すら動かすことができない、そうなるともはやアメリカの言いなりになる以外に生き延びる道がなくなる。そうなる前に行動を起こさなくてはいけないと考えたのは当然だと思います。






では、外交交渉によって自体が打開できたか?というと甚だ疑問です。

大西洋憲章でのアメリカの態度から分かるように、アメリカにはそもそも日本と外交妥結するつもりなど微塵もなかったからです。

強硬な反日主義者で、社会主義者とも揶揄されたフランクリン・ルーズベルト大統領が『日本をあやす』と表現したように、日本との外交はアメリカにとって時間稼ぎでしかなかったのです。



この点が、戦後日本では語られる機会がありませんでした。



外交とは相手あってのものです。日本がいくら戦争回避の努力をしても、相手がそれを望まない限りは平和は成り立たないのです。これは現代の東アジアにも言えるのではないでしょうか?




そして当時の日本は、1941年10月上旬ごろまでに外交に進展なき場合、外交交渉による打開を諦め戦争決意をする、と決めています。

10月下旬ごろまでにその準備を完整させ、11月には対米宣戦を行う、という手筈でした。



もしもこれがそのままだったら、史実では開戦がひと月ほど早かったかもしれません。
しかし、そうならなかったのは、昭和天皇=先帝陛下が平和を望まれたからでした。