順番がかなり前後しましたが、ていていたー氏が製作されたFLASH『大日本帝国の最期』の紹介を兼ねて、第壱幕を取り上げさせて頂きます。



大日本帝国の最期 第壱幕



第壱幕は、日本が第2次世界大戦の参戦に至るまで、その経緯と理由が描かれています。

展開は早いですが、日本が戦わなくてはならなかったわけが、手っとり早く理解できると思います。




日本が開国した19世紀後半は、独立国家は50にも満たない、世界のルールは白人によって決められ、完全なる欧米列強による支配が完成していた世界と断言してもよいと思います。




日本は、いわゆる『鎖国』はしていたとはいえ、清やオランダ、朝鮮や琉球とは間接的に交流していました。その中で、オランダ商人の『オランダ風説書』や清国人の『唐人風説書』によって限定的ながらも世界情勢を把握していたのです。



19世紀後半に入り、開国した日本が目にしたものは何だったでしょうか?

白人によって大半が植民地にされたという『現実』、東アジアの独立国は、片手で数えられるほど少ないという『事実』でした。



この現実を見たとき、いくら200年以上の太平を謳歌した日本といえども、危機意識を持つはずです。

日本が防衛の為に力を持たねば、と考えたのは当然の論理的帰趨でした。




繰り返しますが、20世紀当初、アフリカとアジアのほぼ全域は白人の支配下にありました。



その中で、本来差別されるはずの、白人からしたら『劣等人種』であるはずの日本人が、白人の国と肩を並べるということの意味と意義、その苦労は、はたして私たちに推し量れるものなのでしょうか?




第1次大戦後、国際連盟の席で、連盟規約に『人種差別撤廃条項』を記載すべきと主張したのは、私た地日本であることは歴然たる事実です。


全ての人種は平等である、という今では当然となっている国際的意識は、当時では忌避されるものでした。日本が人種平等を主張したのは何故か?これを今、私たち自身が問わなくてはなりません。




私が日本に興味を持ったのは、前にも述べたとおり明治維新と大東亜戦争です。



何故、『明治維新』という世界的に見ても異例の革命を成し遂げ、アジアの中で唯一、近代工業国家へ転身できたのか、という歴史探究から始まりました。その探求は今でも続いています。








満州事変。


戦後日本では、これを日本の大陸侵略の象徴として教えてきた節があります。

では、満州事変は日本の侵略だったのか?というと答えはNOです。

それはリットン調査団の報告書が述べるところを見ればわかると思います。




まず前提として満州は中国ではないのです。

中華民国の建国後、孫文が欲を出してチベット、満州を併合しようとしましたが、かの地はそもそも漢民族の治める土地ではありません。


ざっくり言えばこういうことです↓


日本『『中国が安定すれば、ソ連の脅威など問題ではないはずだ』



日本『中国は駄目だ。あいつらはいつまでも内輪もめしている。終わる気配がない。もう中国自身に頼ってはいられない。我々自身で、我々の安全を確保せねば』


という感じだったのが、満州事変をはじめとする日本の対中政策と考えればよいと思います。

中国人の伝統的なお家芸は内乱だという意見がありますが、まさにです。







満州事変の是非はともかくとして、これが日本の国際連盟脱退へとつながり、いわば国際的孤立を招きました。


この時の日本世論は『なんてことしたんだ!!』ではなく『よくやった!!』でした。

今と全く逆ですね。いや、新聞などのメディアの世論誘導が180度転換しただけでしょうか?




ところで、ていていたー氏のFLASHも中国を支那と表現しています。

これは今さら説明する必要はないと思いますが、支那という言葉はCHINAをそのまま発音したもので、フランス語のシーヌから来ています。



差別的意図は微塵もなく、日本の中国地方との混同を防ぐ意味でも、有意義な呼び名といえます。


私はこの手の議論がすこぶるどうでもいいので、『中国』と言ったり『支那』と呼んだり、その時の気分で変えています。








そして、盧溝橋事件


日本の歴史教育では、『盧溝橋事件を持って日中開戦した』という誤解がまかり通っていますが

実際は、盧溝橋事件の後に協定が結ばれ停戦しています。



その後に起きた通州事件、郎坊事件、広安門事件が立て続けに起こり、第2次上海事変により日中の戦いは本格的になっていきました。


これはいずれも、中国人による協定違反or日本人虐殺であり、日本は大陸の戦いに引きずり込まれていった、というのが歴史的真実だと言えるのではないでしょうか。


日本は当初、事態の不拡大を目指し北支事変と呼んでいました。

それが、中国大陸の内陸奥ふかくまでおびき寄せられた泥沼の戦い=支那事変へと拡大してしまうのです。




ところで盧溝橋事件で、日本と中国国民党軍、どちらが先に発砲したのか?という議論は戦後も盛んに行われました。しかし今現在では、中国共産党軍による謀略だった、というのが発覚しています。




もっといえば、中国国民党の中に紛れ込んだ共産党軍のスパイが発砲した、のが本当のところです。

何のために?ということですが、端的にいえば敵と敵を戦わせて疲弊させる、その後に漁夫の利を得る、という狙いです。




この状況を知ってか知らずか、アメリカはこれを日本たたきの為の格好の材料としました。

中国市場へ参入したい、また太平洋の覇権を握りたいアメリカにとって邪魔な日本を片づける絶好のチャンスだったでしょう。



第2次近衛声明で出された『英米に頼らない経済自給圏』。

これこそが大東亜共栄圏であり、昭和における日本の行動原理は全てこの経済自給圏を求めたもの、として説明することができます。



当時、世界での豊富な資源産出地はほぼ全てをイギリス又はフランスが植民地にしており、貿易の上では英米仏を命綱とするほかありませんでした。

これでは経済的に植民地であるも同然なので、日本は日本独自で自給できることを目指していたのです。







1939年9月1日

世界的にはこの日を持って第2次世界大戦の始まりとしています。





第2次世界大戦がはじまる中、アメリカは対日石油輸出を制限。

日本にとっていよいよ石油輸入が死活問題となり、アメリカの代わりとしてオランダとの貿易を模索しました。


オランダ領東インド(現インドネシア)は豊富な石油産出地であり、かの地と貿易することで石油需要を賄おうとしたのです。


ところが、アメリカやイギリスは先手を打ち、オランダにも根回しをしていました。

そのため、日本に対するオランダの態度は非常に厳しいもので、結局、オランダとの貿易交渉は遅々として進みませんでした。






そして日本を苦しめたのが援蒋ルートです。

日本と中国が戦いを始めたのは1937年

3年後の1940年を回っても、終わる気配がありませんでした。


なぜこれほど長引いているのか?と言えば、中国大陸の広大さもありますが、アメリカやイギリス、フランスらによる中国への物資援助があったのも一因です。物資援助の為の交通路を援蒋ルートと呼びました。



米英の対中物資援助には当然日本も気づいており、この援助ルートを断ち切るために奔走しています。

日本がフランス領インドシナ(現ベトナム-ラオス-カンボジア)は進駐したのはそのため。


仏印ルートは4つある援助ルートの中でも一番多量の物資が中国へもたらされており、日本としては早急にこれを妨害せねばなりませんでした。






1940年6月には、ドイツの電撃戦術によりフランスが降伏。

これによってフランスの植民地であったフランス領インドシナは、日本に対し柔和な態度をとるようになります。






そして1940年頃、日本の石油事情は余談を許さない状況となっていました。

アメリカの対日石油輸出は制限され、いつ禁輸されてもおかしくはない。

オランダも日本に輸出してくれる望みは薄い。
ならば、力でもってオランダ領東インドを攻略し石油を確保しよう、という意見がありました。


その場合、作戦の遂行上どうしても障害となるイギリス植民地の攻略が必須となると結論付けられました。

では、イギリスを攻撃したら、アメリカは中立でいてくれるのか?という問題が浮上します。



これが、いわゆる可分論と不可分論です。


陸軍は『作戦はあくまでイギリスのみに限定するよう努める』とする可分論



海軍が『イギリスを攻撃すれば、対アメリカの早期開戦は間違いない。対米開戦への戦備と覚悟が十分でないなら、南方作戦は行うべきはない』とする不可分論を主張。


この2つにわかれてしまいました。


結局日本としては、不可分論が現実的として採用しています。





イギリスを攻撃したら果たしてアメリカは戦争に踏み切ったのか?という問題は、極めて不透明で判断の難しいところです。

当時のアメリカ世論は強いモンロー主義(非戦派)が渦巻いていたことも考慮せねばなりません。

アメリカの最高権力は大統領ではなく、国民世論といっても過言ではないからです。




石油の輸入交渉、確保が難航する中、援蒋ルート遮断は比較的順調に行きます。

日本はフランスとの交渉により、フランス領インドシナ北部へ、平和的進駐を果たすことができました。


しかしアメリカはこれに強く反発。日米の溝はどんどん深まっていったのでした。