1937年、当時のイギリスのチャーチル(当時は議員)と、ドイツの駐英ドイツ大使リッペントロップとの間で会談が開かれました(日付は定かではない)。









チャーチルとリッペントロップが会うのはこれが初めてではなく、社交の場では幾度か顔を合わせていたといいます。そのリッペントロップが、チャーチルに対して会って話をしたいと持ちかけた事から、会談が開かれました。






ウィンストン・チャーチル

近代イギリスの政治家と言えば、サッチャーかチャーチルを思い出す。

大戦を強権的に指導するが、戦後の選挙では落選した。





ヨアヒム・フォン・リッペントロップ

ドイツ外務大臣になり、ソ連との不可侵条約を結んだことで有名。

独ソ不可侵条約は、モロトフ・リッペントロップ協定と呼ばれる。

大戦後は、ニュルンベルク裁判の被告として死刑になった。




チャーチルとリッペントロップは、ドイツ大使館の2階で2時間にも渡って様々なことを話したそうです。





リッペントロップの話は主にこのようなものでした。

★ドイツはイングランドとの友好を大切にしたい



★私が外務大臣にならず、ヒトラー総統に頼んで駐英ドイツ大使になったのは、英独の友好を取り持つためだ。英独は、協商関係に、できれば英独同盟を結びたい



★ドイツは、イギリス帝国の広大な領土の防衛に役立ちたい



★ドイツは、これから失われた領土の返還を求めて行動を取るかもしれないが、それは主目的ではない



★ドイツがイングランドに求めるのは、ドイツのヨーロッパにおける行動の自由である



★ドイツとしては、増大する人口のためにレーベンスラウム=生活圏を持たなければならない。従って、ポーランドとダンツィヒ回廊を欲する。

それ以下では、決して満足できない



★白ロシア(ベラルーシ)とウクライナは、約7千万人の人口を持つドイツ帝国の将来に欠くべからざるものである。


★ただドイツが求めるのは、イギリス帝国連邦諸国が干渉してほしくないことである




明らかにあり得ない主張です。

リッペントロップは、イギリスにドイツの正当性を認めさせたかったのでしょう。




これを聞いたウィンストン・チャーチルは話を聞き終わった後、すぐにこう言ったそうです。

★イギリス政府としては、ドイツの東欧における自由行動には同意できない


★イギリスはソ連と仲は悪いし、ヒトラーと同様に共産主義を嫌っているのも確かだ


★だが、フランスが例え安全が保障されたとしても、イギリスは中欧・東欧における支配をドイツに握らせるほど、ヨーロッパ大陸の運命に無関心でいることはできないことは承知しているはずだ




チャーチルとリッペントロップは、ともに地図の前に立っていたそうですが、チャーチルの返答を聞いてリッペントロップが地図から離れました。



「それなら、戦争は避けられません。それ以外に道はありません。総統は決意しています。何者も彼を止められないでしょう。また、何者も我々を止めないでしょう」






リッペントロップがこう言い放つと、チャーチルは、

「貴下は戦争の事を口にされるが、それは疑いも無く全面戦争と言うことになるでしょう。

しかし、貴下はイギリスを見くびってはいけませんよ。

イギリスと言う国は妙な国ですよ。その気持ちを大抵の外国人はよく理解できないのです。現政府の態度から判断してはいけません。


一度大きな大義名分が国民の前に示されると、この同じ政府とイギリス国民によって、全く予想もつかないあらゆる種類の行動がとられることがありますからね。」



続けて、


「決してイギリスを見くびってはいけません。イギリスは非常に利口です。もしも貴方方が我々を再び戦争に投げ込むようなことがあれば、前大戦のときと同じように、イギリスは全世界を貴方がたに向けて立ち上がらせますよ」


と返したそうです。

その後、イギリスとドイツが戦争になったのはご存じのとおりです。

チャーチルは会談の後、リッペントロップ夫人に会う機会があったそうですが、別れ際に「イギリスとドイツは友情を保ちたいですね」と言ったところ、「貴方がたの方でそれを壊さないようにご注意ください」と返されたそうです。


ドイツは、あくまでイギリスも倒せると思っていたんでしょう。

でなくば、戦争など起こさなかったと思われます。


実際、当時のイギリス政府はドイツとの友好を信じ、しかも軍縮に向いていましたから、ドイツからすれば脅威でも何でもなかったでしょう。

今の日本と中国の関係に類似しているともいえます。