トルコ航空:日本人救出の元機長が死去、87歳

イラン・イラク戦争中の1985年、テヘランに取り残された日本人215人を救出したトルコ航空機の元機長、
オルハン・スヨルジュさん(87)が先月24日(2013年3月)、イスタンブールで死去した。
トルコと親交のある和歌山県が1日、発表した。在イスタンブール日本総領事館によると、病死とみられる。

イラクがテヘラン空爆を開始した際、日本の航空機が就航しておらず、脱出のために空港に押し寄せた在留日本人が孤立。
トルコ政府が救出のため特別機2機を派遣した。
スヨルジュさんはこのうち1機の機長。その功績で06年、旭日小綬章を受章した。

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オルハン・スヨルジュ氏は去年3月に死去しました。
ご冥福をお祈りします。

エルトゥールル号の遭難から始まった、日本とトルコの絆。
トルコが忘れず覚えていてくれるのであれば、日本もトルコへの恩義とオルハン・スヨルジュ氏への恩義を一生涯、忘れることはありません。


エルトゥールル号、イラン・イラク戦争時の日本人救出、この二つはトルコでは学校で教えているようですが、日本の学校では教わることはありませんね。
なぜ、教えないんでしょうか?




エルゥールル号の件に関しては長くなりますから省略しますが、トルコが世界でトップクラスの親日国である所以は全てこれで氷解します。



私は書籍で知りました。だいぶ前に読んだ、「世界が愛した日本」という本です。
その書籍には、このようにありました。



●日本人救出へ
1985年(昭和60年) 3月19日

エルトゥールル号の遭難から95年後の1985年、イラクのフセイン大統領の無差別撃墜予告を受け、世界中がパニックに陥った。どの国も、イランに取り残された自国民の救出に全力を注いだ。しかし、対応の遅れた日本は自国民の救出を他国に頼るしかなかったのである。




脱出期限の3月19日当日、ソ連のエアロフロート機は自国民を優先し、日本人の搭乗は全て拒否。

オーストラリア航空2機とエールフランス機、ルフトハンザ機で40余名の日本人が脱出したが、尚200名以上の出国希望者がいた。






絶望的状況の中、日本が最後に頼ったのはトルコだった。
トルコ政府との交渉は、野村豊駐イラン大使とトルコの駐イランのビルセル大使、伊藤忠商事の森永尭とトルコのオザル首相(後に大統領)の2つのルートで行われたが、それはどちらも、両者が個人的に親しいという理由だけで試みられたものである。

断られても仕方のない頼み。
「なぜ日本は救援機を出さないのか」と言われれば返す言葉もない。
しかし、一縷の望みをかけ、森永はオザル首相に電話をかけた。

「トルコ人を優先して救出するのは当然ですが、どうか、日本人をトルコ人と同じように扱ってくださいませんか。いま日本が頼れるのはトルコしかありません」

「......」

長い沈黙が2人の間に流れる。そして、オザル首相の口から発せられた運命の言葉
「オーケーだ。すべてアレンジするよ」

「われわれは日本人に恩返しをしなければいけないからね」

イランには多くのトルコ人も取り残されている。
トルコ人の救出を優先させても、何ら責められるいわれもない。
それでもオザル首相は日本人の救出を引き受けたのである。

すぐにオザル首相の指示を受けたトルコ航空が救援機のパイロットを募ると、なんとその場にいた全員が手を挙げた。
その中からフライトを任されたオルハン・スヨルジュ、アリ・オズデミリは、いずれもDC10型機を操るベテランだった。

(中略)

フセインの爆撃予告のタイムリミットぎりぎりの救出劇。

しかし、なぜトルコが日本のために?その理由を日本の政府もマスコミもわからなかった。後日、駐日トルコ大使はその理由を短いコメントで表した。

「エルトゥールル号の借りを返しただけです」

トルコではエルトゥールル号の事件は教科書にも載っていて、誰もが知っている歴史的事実であるという。そう、エルトゥールル号の事故に際して、日本人が為した献身的な救助。
それをトルコの人々は95年経っても忘れていなかったのである。

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日本とトルコは、お互いに遠い国ですが、このように過去の絆をもって非常に深いつながりがあります。
遠い国であるからこそ、利害が対立せず友好を保ちやすいという背景もあります。

エルトゥールル号の件、そして約100年たってもトルコが忘れずにいてくれたこと、トルコが日本人の命を助けてくれたこと、これを何故日本の学校教育で教えないのか、私には全く謎でしかありません。


これを知らない、というのはトルコに対して全く失礼の極みではないでしょうか?