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開戦の時のことを思い起こすと実に断腸の思いがある。
今回の処刑は個人的には慰められるところがあるけれども、国内的の自分の責任は、死をもって償えるものではない。
しかし国際的な犯罪としては、どこまでも無罪を主張する。
力の前に屈した。
自分としては、国内的な責任を負うて、満足して刑場に行く。
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ただ同僚に責任を及ぼしたこと、下級者にまで刑の及びたることは、実に残念である。
天皇陛下および国民に対しては、深く御詫びする。
元来、日本の軍隊は、陛下の仁慈の御志により行動すべきものであったが、一部過ちを生じ、世界の誤解を受けたるは遺憾である。
日本の軍に従事し、倒れた人および遺家族に対しては、実に相済まぬと思っている。
今回の判決の是非に関しては、もとより歴史の批判に待つ、
もしこれが永久の平和のためということであったら、もう少し大きな態度で事に臨まなければならぬのではないか。
この裁判は、結局は政治裁判に終わった。
勝者の裁判たる性質を脱却せぬ。
天皇陛下の御地位および陛下の御存在は、動かすべからざるものである。
天皇陛下の形式については、あえて言わぬ。
存在そのものが必要なのである。
それにつきかれこれ言葉をさしはさむ者があるが、これらは空気や地面のありがたさを知らねと同様のものである。
東亜の諸民族は、今回のことを忘れて将来相協力すべきものである。
東亜民族もまた他の民族と同様の権利をもつべきであって、その有色人種たることをむしろ誇りとすべきである。
インドの判事には、尊敬の念を禁じ得ない。
これをもって東亜民族の誇りと感じた。
今回の戦争にて、東亜民族の生存の権利が了解せられはじめたのであったら、幸せである。
列国も排他的な考えを廃して、共栄の心持ちをもって進むべきである。
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この中で東條元首相が述べられた、国際的な犯罪というのは
「国家を扇動し世界征服を目論んだ」として「平和に対する罪」などというちゃんちゃらおかしい罪状で死刑になった事を指しています。
まず侵略の謀議など、証拠は何一つ出てきていませんし、これはつまりアメリカにとって都合の悪い東條氏を日本から抹殺するために作られた濡れ衣です。
大体、国際犯罪がどうとかいうなら、都市空襲はどうなのでしょうか?
2発の原子爆弾の投下は?
何十万人も「非」戦闘員を、民間人を殺しておきながら、アメリカはなぜ裁かれなかったのでしょう?
東條元首相は、日本国民に対して自らの命を持って責任を取ると述べられたのです。
はだしのゲンなどでは、東條の責任がどうとか書かれていますが、この点が全く抜けおちています。
これほどの覚悟をもった人間が、戦後の日本にいましたか?
アメリカ、イギリスらが日本への復讐として行った、裁判と呼ぶにもおこがましい茶番劇がもたらした判決を受け入れ、評価は後世の日本人に託すと言っているのです。
だが死刑を受け入れたのは、連合国への贖罪のためではない。
日本国民への贖罪のためである、ということです。
東條元首相は東京裁判を
「この裁判は、結局は政治裁判に終わった。
勝者の裁判たる性質を脱却せぬ」
と、まさに東京裁判の本質を見抜き、鋭く指摘しています。
それでおきながら、今の時代に生きる私達がいまだ目を醒ますことなく
「日本は侵略した悪い国だ」
「東條独裁の軍部こそ絶対悪だ」
「東京裁判は正しい。アメリカが民主主義を齎してくれた」
など恥ずかしげもなくいえるでしょうか?
既に、戦後から70年が経過しています。
私達は先の大戦を、あの裁判を今一度見直し、再検証するべき時ではないのでしょうか?
余談ですが、かわぐちかいじ氏の漫画「ジパング」の中で、帝国海軍の草加拓海にこういうセリフがあります。
「この戦争で日本人が変わったところと、
変わらないところがあるだろう」
この戦争とは、大東亜戦争のことを指します。
あの大戦争の後、私達日本人は何が変わり、何が変わらないのか?
これも考えてみなければいけない問題だと私は思います。